ふらつきながらも何とか小さな社の前まで昴が歩いていくと、そこにはぬばたまがいた。
「何じゃ、一体どうした?!」
ひどく青ざめた表情で、足下のおぼつかない昴に、ぬばたまは驚いて尋ねた。昴は重たい足を引きずるようにして、ようやっと低い石垣にもたれ掛かる。
「雑鬼に・・・色々聞いてきた」
ふう・・・と息を吐いて、額の汗を拭う。
「その気があって近づいたから、少し取られた」
「少しなもんかいな。だいぶ気を取られておるではないか。無茶しおって」
「まぁ・・・ね。でもおかげで大体分かったよ。それに、これくらいの気ならすぐに取り戻せる」
昴は傍らに寄ってきたぬばたまの滑らかな背を何度もなでて、ふぅと小さくため息をつき、やっといつもの柔和な笑みを取り戻した。神の遣いであるやたがらすが、昴に気を取り戻させる。
「それで、ぬばたま。そっちはどうだった?」
「おお、こちらもすぐ調べはついたわい。確かに昴の言ったとおり、日本舞踊の師匠の死んだあとのことだった」
「というと?」
「彼女が死んだ後、遺品の大部分は弟子の手に渡ったようだ。着物や小物、装飾品もな。彼女には女系の親類がおらなんだからのう。だが遺品の中で気に入っていたいくつかは、一緒に棺に入れたそうだ。例の翡翠の簪も、そのうちの一つだった」
「それなのに、こうしてここにある理由は?」
「義弟のせいだ」
つい先ほど聞いたのと同じ言葉に、昴は鋭くぬばたまを見据えた。
「彼女の義弟は、ひどく道楽者でのう。金策に喘いでおったので、金になりそうなその簪を棺からこっそり抜いたそうだ。そして高く買ってくれる店へ売って金にした。翡翠に影が差したのも、同じころであろうよ。それでたまらず店主の枕元に立って、助けてくれと懇願したのだろう。」
「なるほどね」
すべて合点がいく。そうでもなければ、昴が歌で作った強固な護りを、魍魎などに簡単に破られるわけがない。欲望が作り出した僅かな、しかし決定的な隙。そこを狙われてしまった。つまり仲介した、というわけか。
「こちらで聞いた話と相違ない。とにかくその影を祓えば、彼女に会うことができるだろう。早いとこ始末してしまおう」
「そう都合よく奴が姿を現すかのう」
「花魁が言ってた。なぜか急に素浪人を狙うようになったって。奴も少なからず僕の存在に気づいたんだろう。誘えば乗ってくるにちがいない」
「ほかの奴らはどうする?」
「今は放っておけばいい。奴を祓うか、彼女に簪を返しさえすれば、雑鬼を一網打尽にできるだろうから、変に手を出して刺激しない方が無難だ」
昴はもたれ掛かっていた石垣から離れて腕を組み、花街の方を見遣った。まだ日没の時間でもないのに、空には黒雲が増え始め、辺りを暗くしていく。前触れだろうか、ざわざわと胸騒ぎがしてくる。
「嫌な空模様だの」
「ああ」
昴は決意を固め、鋭く花街を見据えた。「その時」は近い、そう予感していた。
* * * * *
やがて花街に夜が訪れた。宵闇の空を雲が覆って、月明かりさえない漆黒の夜。星も消えた。風に乗って雲が動いていく様子ですら見えやしない。雑鬼たちも、この異様な雰囲気を察しているのだろうか。花街には頃合いの時間だというのに、どの見世も明かりを消して閉じこもっている。街にはただ一人、昴だけがただずむ。
「夜でないといかんのか?昴」
昴の肩に三本足でしっかりと掴まって、ぬばたまがぼやいた。いかに神の遣いであっても鳥は鳥。夜目が利かず、自由に飛ぶことができない。
「仕方ないだろう。昼間じゃ奴が出てこないのだから」
「しかしこれでは何もできんではないか」
「いいよ。そうして護りさえ固めててくれれば・・・」
このおぞましい気配の絶えない闇の中、肩にヤタガラスがいるだけでかなり違う。ぬばたまが体に触れていれば、先ほどのように気を取られる心配もない。
「何をそうキョロキョロしておるのだ?」
ぬばたまは、そのせいで安定しない肩の上でよたよたとよろめきながら、若干迷惑そうに尋ねた。
「うん・・・ここで人と落ち合うはずなんだけど・・・」
「約束したのか?」
「いいや」
それでもあの人は「会おう」と言った。昴の読み通りなら、今来ないはずはない。
「まったく、昴も曖昧なことを言うのう。一体誰と落ち合うつもりかね?」
「前にも言っただろう?高野という人だよ」
「おお、そやつか。で、正体は分かったのか?」
「うーん・・・大体、ね。助力しに来てくれると思うんだけど・・・」
そこまで言ったところで、昴とぬばたまは同時に鋭く、少し先の曲がり角を睨んだ。この闇の中、もちろん姿は見えない。けれど、ひどい腐臭をまとったものが、這いずるようにしてこちらに向かってきている。それが分かる。あまり猶予はない。
「来おったぞい、昴!えぇい、その高野というのは何をしておる?!」
夜目が利かないのが、ぬばたまを焦らせている。肩から落ちそうになるのを、昴が手を添えて支えた。腰を落として、曲がり角に身構える。
ふと、昴が背にした方から、コト・・・とわずかな音がした。もうまもなく曲がり角から大きな妖気がやってくるというのに、昴は構わず振り返った。するとそこには先ほどまでなかったはずの・・・
「昴!よそ見をするでない!」
ぬばたまに一喝され、昴は再び向き直った。
「分かってる。もう大丈夫だよ」
昴は緊迫した表情の中に、わずかに不敵な笑みを浮かべてみせた。花街に入ったときには手持ちぶさただった手には、今は一本の箒が携えられている。
「来よる・・・!」
ぬばたまがそう叫んだのと、ほぼ同時であった。曇天の夜空よりも、漆黒の海よりも黒く、暗く、陰鬱な固まり。腐臭が鼻を突き刺す。昴は左腕を口元にあてがった。そして瞬きもしないで、それを凝視する。なるほど、これはおぞましい。雑鬼どもでさえも恐れるはずだ。普通の人の二倍は高く、五倍は広い。ここらの雑鬼を食らって、無計画に膨れ上がったのか、黒い粘液を大きな袋いっぱいにため込んだようなまん丸の体に、申し訳程度に四本の足が生えている。それが地を進む度に、グチョだとかベチャとかいった不快な音をまき散らしている。
「ぬお・・・嘴が曲がる・・・!」
「しっかり掴まってて、ぬばたま」
昴は今一度ぬばたまの三本足をぎゅっと自分に押し当てると、険しい表情のまま勇んで前へ出た。
「お前が仲介者だね?」
試しに尋ねてみると、妖気の固まりは返事をする代わりに、ゴボリゴボリ・・・と粘液で音を立てた。
「ここはお前のいていい場所じゃない。今すぐに出ていってもらおう」
『こしゃくナ・・・!』
わずかにそう聞き取れたかと思った途端、体の真正面、顔があると思える場所から、五本目の足が飛び出してきた。指先が鋭く、人を軽く握りつぶせるほどに大きな手が昴に迫る。しかし彼は冷静だった。携えていた箒をとっさに両手で持ち直し、勢いよく足下を払って一本線を引いた。妖気の手は、そのたった一本の線に遮られて、明後日の方向に音を立てて突き刺さった。
「今のは何じゃ?何をした?昴」
「僕は何もしていないさ」
軽く言い流すと、昴は線に箒の毛先を当てて、妖気に向かってもう一掃きした。
『ぐオオ・・・!!』
風など一迅も起こりはしなかったはずなのに、妖気の丸く大きな体は、突風に吹かれたように波打った。頼りない足がさらによろよろとよろめいて、思わず後ずさりする。
「その箒か」
ぬばたまは夜目をこすって、その根元を突き止めた。昴がなんとなしに携えた、どこにでもありそうな一本の箒。それがあの巨大な妖気をいとも簡単に祓っている。
「その通り。箒は払うものだからね」
『オ・・・おノレ・・・』
妖気は正面から近づけないことを知ると、ゴボゴボと音を立てて体の形を変え、足の一本を昴の背後から近寄らせた。だがそれも、肩に止まったヤタガラスの一声が昴の体に触れさせない。
「ずいぶん良い箒なのは分かったが、あまり手間をかけている時間はないぞい」
「そうだね、さっさと片づけてしまおう」
昴は構えていた箒を一度下ろすと、何歩か妖気の固まりに近づいた。妖気の中を満たしている粘膜は、相変わらず世話しなく流動して、不快な音を立てる。
「さて」
もはや一歩たりとも昴に近づけない妖気の固まりに、言葉を投げかけた。
「お前は招かれざる客だから、それ相応の追い出し方をしようか。人の欲望につけ込んで、霊性高い翡翠に入り込むなんて邪推な真似、今後一切させないよ」
『お・・・ノ・・・れ・・・、ワカゾウが・・・』
「悪いけど、君が思ってるほど僕は若いわけではないからね。手は抜かないよ」
昴は語尾を強く言い切って、再び箒を持ち直すと、毛先を上にひっくり返した。そしてそれをわずかに掲げるように持ち上げると、箒の柄の先を地面に突き立てた。
「魍魎退散」
箒の柄が地面についたのと、昴が言葉を言い終わったのは、ほぼ同時であった。すると昴を中心に大きな風のうねりが起きて、宵の花街も城下町も、たちまちの内に分解して霧散していった。大きな妖気の固まりが、おぞましいほどの断末魔の悲鳴を上げて、粘膜を溶かされていく。飛ばされていく街のあちこちからは、小さな雑鬼たちがきゃあきゃあと甲高い悲鳴を上げて投げ出されていった。小さなトカゲのような雑鬼が、その中に紛れて飛んでいくのが見えた。あの花魁だろうか。