曇天の真っ暗だった空は、いつのまにかうねりに巻き込まれてその様相をなくし、代わりに現れた果てない白い空間がどんどんと雑鬼を飲み込んでいった。それはどんなに長く、また短い時間だっただろう。あれほど重い空気で淀んでいた宵闇の街は、一瞬にしてなくなった。文字通り、昴は箒一本でまやかしを全て祓ったのだった。

「効果覿面だね」

 ややあって昴は満足そうに箒を持ち変えた。

「途中よう見えんかったが、一体何をしたんだね?」

「箒を逆さに返したんだよ。昔から使われていたおまじないさ。長っ尻の嫌な客を追い出すための、ね」

 昴とぬばたまがそう話す間にも、周りの景色はどんどんと変わっていく。空はすでに無く、街も一切が消え失せ、地面ですら真っ白の無の空間になった。

そこにぽつんと座る影。

「お前様、お久しゅう」

 それは小さな鈴がわずかに揺れたような高く澄んだ声。美しい黒髪を見事な髷にして、櫛や簪を数本さしている。纏った着物は実に華やかで、打ち掛けの牡丹が今も映えて見える。切れ長の綺麗な瞳が憂いを帯びて昴を見つめ、色白の細い手をすっと差し出した。

「探しましたよ、翡翠太夫。相変わらずお美しく」

 かつてこの簪を・・・彼女を誂えた本物の花魁の美しさをそのままに、翡翠の花魁は歩み寄る昴を迎えた。

「本来なら女主人とともに逝くはずだったのが、この世に永らえてしまって・・・。その上あのような魔の物を引き入れてしまうとは。きっと心のどこかで、まだ簪として使われたい思いがあったからに違いありいせん。お前様にご迷惑をおかけして、ひどく心苦しゅうおざんす。昔あれほどわがままを申したばかりだというのに・・・」

「また、どなたかお探ししましょうか?」

 昴は花魁のそばに膝を立ててしゃがみ、彼女の手を取ったまま優しく尋ねた。元より簪を彼女に返すつもりでやってはきたが、彼女がそれを望まないのなら同じことを繰り返す覚悟でもいた。しかし彼女は自嘲的に微笑みを浮かべると、うつむいて、首をゆっくりと横に振った。

「お前様にまたご苦労をかけると分かっていて、どうしてこれ以上わがままを申すことができましょうか。もう・・・私は十分でありんす。その簪は、どうぞ焼くなり水に沈めるなり、お前様のやりいいように供養なさいませ」

 そうは言っても、まだ名残惜しむ心があるのか、はらりと一筋涙が落ちる。昴は懐からおもむろに簪を取り出した。

「そうですね。確かに現世にはもう、この簪に見合う人はいないように感じます。けれど、大事に使われ続けてきて、今もこうして美しくあるものを、なくしてしまうのも忍びない」

 昴は翡翠に落としていた目線を、今一度太夫に戻して強く見つめた。

「太夫、僕はこれを貴女に返しにきたのです」

「・・・私に?」

 昴は優しく微笑んで頷く。

「この簪が見合うのは、もはや貴女以外にはおりません。物はあるべき場所へというのなら、貴女が持つのがふさわしい」

 翡翠太夫は信じられないというように目を丸くしたが、その一方で実に嬉しそうに頬を紅潮させた。

「さあ」

 躊躇う美しい手のひらに、昴は簪を差し出す。

「ああ・・・」

 簪がふれた瞬間、安堵したように太夫は感嘆のため息をついた。愛おしそうに頬に寄せ、はらはらと涙を落とす。失われていた体の一部が戻ってきたような、生き別れていた子供が帰ってきたような、何ともいえない一体感。翡翠の中心ににじんでいた影は今はもう消え去り、美しく澄んだ青い色を輝かせている。

 

「思い出します・・・」

 初めて元の持ち主である花魁の黒髪を飾ったときのことを。出会う人が皆美しさを賞賛し、花魁の生き写しだと言った。誇らしく、永遠を夢見た日々。もう戻らないからこそ、戻ることを偏に願った。けれど、それも今日で終わり。

 

「これをお返しいただいたからには、私もお前様に歌をお返ししなければなりいせんね」

 ややあってから翡翠太夫はうっすらと瞳に涙を浮かべて微笑み、昴を見つめた。昴は柔和な表情で、こくりと頷く。

「永き世の 乱れも御霊の 宿るれば 何にかはせむ 翡翠の簪」

 かつてこの世に穏やかに残れるよう昴が贈った歌を、翡翠太夫が口にする。歌はきらきらと細かく輝く光となって、太夫の口元から発せられ、空中を漂いながら昴の手元に集まった。昴が光をたぐり寄せると、それは和歌の書かれた一枚の札に変わった。

「確かに」

 札は一時はっきりと見えていたが、やがて昴の身の内に溶けていくように消えた。

「まだほかに思い残すことは?」

 翡翠太夫は満足そうに首を横に振る。

「ありいせん。お前様、本当にありがとうおざんす」

 美しい色白の両手で昴の手を包み込み、感謝を込めて頬に寄せた。

「本当にありがとう」

 もう一度口にすると、太夫の体は青白い光に包まれた。そして見る間に人の姿を変えていき、小さく光が凝縮され、最後には一羽のカワセミになった。

「相変わらずお美しく」

 カワセミは昴の言葉にはにかんでから、ぱっと地から飛び立った。白い空間に瑠璃のように美しい小鳥がよく映える。やがてカワセミは小さな青い点にしか見えなくなって、そしてとうとう昴の視界から消えた。翡翠は魂と器とが一緒になって、行くべきところへ行ったのだった。

 

 

 

 

 「さて、と」

 昴はカワセミが見えなくなるまで見送って、それから一息ついた。

「これでやっと家に帰れるね。予想通り雑鬼どもも一掃できたし、早いとこ戻らないと。奴らが向こうに溢れただろうから」

「まあ、それはひこばえや双姫がある程度はなんとかするだろうがの」

「うん、でも気になるしね」

 そう微笑んだ昴の姿は、いつの間にか現世と同じ格好に戻っていた。翡翠の力がなくなって、偽りの城下町や花街は消え失せ、素浪人のコウさんもいなくなったのだ。ただいつものシンプルな格好の昴が、左肩にヤタガラスと、右手に箒を携えているだけだった。

「まったく昴ばかりが世話しないのう。結局例の高野とやらも来なかったではないか。昴がみーんな片づける羽目になったのう」

「おや、ぬばたま。君は気がつかなかったのかい?」

 昴は意外そうに尋ねて、持っていた箒を少し持ち上げてぬばたまに示した。

「箒に使われる植物を、一般的に高野箒というね。その昔高野山で煩悩を打ち消すために使われたのが由来だとか」

 するとぬばたまもそれを聞いてすぐに分かったようで表情を変えた。

「そう、この箒こそが高野殿だったんだよ。つまり彼は、とても高尚な箒神様だったってことさ」

「おやまぁ、しかもこの箒、よく見れば神社に置いてあったものではないか」

「なるほど、だろう?」

 昴は優しくぬばたまに微笑みかけて踵を返した。

「さ、帰ろう」

 ヤタガラスに先導を頼み、昴は真っ白な空間を歩きだした。その途中、ふと振り返って感慨深くその先を見つめたが、特に何をするでもなく、また元の通りに向き直った。

 

 

 

 さようなら。

魂を持ったが故に翻弄された、はかない小さな翡翠(カワセミ)よ。

 

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