「コウさん!ご無事だったのね」
翌朝、長屋を出て城下町を歩いていると、昨日の町娘もどきが店先からあわてて声を掛けてきた。常に爪が鋭くとがっている娘だが、それもこの町ではまだ可愛げがある。
「どうした?そんなに慌てて」
「あら、ご存じなかったの?」
娘は怪訝そうに眉根を潜めた。辺りを軽く見渡して、昴に耳打ちする。
「昨日花街で人殺しがあったそうよ」
「人殺し?」
「ええ、なんでも殺されたのは若い浪人だったとか。もしやコウさんではなかったかと心配してたのよ。ああ、でも良かった。こうしてなんともなくて」
娘は明るく昴の肩を軽く叩いたが、昴は眉間にしわを寄せたまま考え込んでいた。質の悪い妖怪だと言っていた、昨日の女郎の言葉が気にかかる。ただの雑鬼同士の小競り合いなら何でもないが・・・
「これでコウさんの花街通いも程々にしないとね。あんまり無闇に彷徨いてると、今度は殺されちまうから」
「人殺しはどこで?」
「え、どこって・・・花街の西側だそうよ。朝からご奉行と野次馬でごった返してるって」
「そうか、ありがとう」
「ちょっと、行くつもりかい?よしときなよ、コウさん!コウさんってば!」
町娘が止めるのも聞かず、昴は早足で花街へと向かった。
人殺しの現場は、町娘の言ったとおり野次馬が多く集まっていた。その最前線に奉行所の役人が何人かいたが、しかしそこは雑鬼の人間崩れ。身なりは立派だが、各々正体を微妙に隠し切れていない。昴は野次馬の波に混ざって、その間から現場を見た。まことおぞましいことこの上ない。どす黒い血がバケツをひっくり返したように、一面に流れ出ていて地面を染めている。そしてなによりこの腐臭。腐った水の方がまだマシだと思えるほど鼻をつく。昴は手の甲を口元にあてがって、思わず顔をしかめた。
「ひえぇ、恐ろしいねぇ」
「何でも仏さん、腰から上がなかったらしいよ」
「頭からがぶりとやられたってのかい?くわばらくわばら」
野次馬たちがあちらこちらで噂を口にしている。なるほど、雑鬼でさえ声を潜めて怖がるか。確かに、ここに残されているまがまがしい気配は尋常ではない。その割に喰らった方の存在を示す形跡はないとなると、雑鬼に混じってよほどの大物が紛れたか。昴は辺りの野次馬たちを見回した。
(あ・・・)
その中に一人、異質な人物を見つけて昴は顔を上げた。異質と言ってもいやな感じではない。長身痩躯、垂らした髪に、無精ひげ。昨日花魁が言っていた人物そのもの。その人もまた、人殺しの現場を険しい顔で見つめていたが、ややあってふっと顔を背けたかと思うと、どこかへと歩きだした。
(もしや・・・)
昴は野次馬たちを押し退けて、去りゆく長身の浪人を追った。浪人はそれに気が付いているのか、振り向くこともしないまま、どんどんと人気のない方へと歩いていく。ただ淡々と歩を進めているだけの割に、とても足が速い。
「すみません、もし、そこの方!」
ようやっと追いついて、昴は浪人の背中に向かって声をかけた。浪人はぴたりと立ち止まったが、未だ振り返らない。
「貴方が高野殿・・・でしょう?」
すると、浪人は非常にゆっくりと振り返った。
「もう私のことを聞き及んでおったか、昴殿」
非常に眠たそうな半開きの目の無表情。声もそれにならって抑揚がない。いかにも気だるそうにしてはいるが、かといって無気力などと言うものではない。
「不躾ですが、貴方は何者です?ここの事情はおろか、僕のことまでご存じのようだ」
ほかの雑鬼と違って、はっきりと昴と口にした。つまり雑鬼ではない、けれど自分と同じ人間でもない。
「自分が何者であるか、今はどこであれ口にすべきではない。お前様の言ったようにな」
「では、貴方の目的は一体何ですか?せめてそれくらいなら・・・」
昴はもう一度尋ねた。しかし高野は首をゆっくりと横に振る。
「その時がくれば、すべてのことが自ずと分かる」
「その時?」
「そう、その時。今ではない」
語尾を強く言い切られて、昴はそれ以上つっこんで聞くことができなくなった。花街の外れ、道の先に藪の広がる寂れた道で、しばし沈黙が流れる。だが、ややあって昴が小さくため息を付いた。
「分かりました。今は貴方が雑鬼ではないということが分かっただけ良しとしましょう。でももう一つ、こうして出会えたご縁に、教えていただけませんか?」
高野はその問いに返事はしなかったが、その代わりにじっと昴の顔を見つめ返した。
「貴方は一体ここをどう見ておいでです?」
すると相変わらず表情一つ変えずに、
「どうもこうもない。お前様の読み通りであろうよ」
「僕の読み通り、ですか?そんなはずはない。少なくとも、貴方の正体を僕は読めていないのだから」
「謙遜をするな。それすらも計算のうちだろう」
ぶっきらぼうだが信頼を込めて、高野は再び言い切った。しかしそれでも昴には珍しく、不安そうな面もちを彼に向けた。
「そう心配することはない。その時は来る」
「もし来なかったら?」
「もし来なかったら、私もお前様もこれ限りと言うだけだ。だが万一にもあるまい」
そして今度こそ高野は昴に背を向けた。
「その時に会うこととしよう」
ゆらりゆらりと、柳が揺れるように高野は去っていった。そして音もなく、ふいっと角を曲がったかと思うと、そのまま気配さえも消えてしまった。
「・・・やれやれ」
昴はもう一度ため息をつきながら、そばの廃屋の壁にもたれ掛かった。額に片手をあてがって手首で目をこすり、通算三度目のため息をつく。
(荷が重い)
荷どころか、体もずっと重く感じられる。先ほどの腐臭が体中にまとわりついているかのように重い。最初は雑鬼が好き勝手に作りだしただけの、荒唐無稽で単純な世界だと思っていた。が、今やそれだけにとどまらず、あらゆるものが複雑に絡み合って、難解な世界を形成している。誰が味方で、誰が敵なのか、正体を明かせない中で段々分からなくなってくる。
「ほ、ほーい。昴よーい」
そこへ不意に空から、拍子抜けな声が聞こえてきた。
「ぬばたま」
「なんじゃい、らしくない顔をして。首尾はどうだ?上々かね?」
「それどころか」
昴は肩をすくめる。
「調べれば調べるほど、家に帰れる気がしなくなってくるよ」
「こりゃまた随分難儀なことになっておるようだのう。ところでこの腐臭はなんだね、嘴が曲がりそうだ」
「昨晩そこで魍魎殺しがあったそうだよ。質の悪い妖怪が横行しているらしい」
「道理で臭いがキツい訳だのう」
ぬばたまは頭をぶるぶると振って、羽もばたつかせた。殺しの現場を少し離れたところで、この腐臭は染み着いて消えることはない。
「つまり何かね?お前は人探しだけでなく、その化け物も退治もせにゃならん訳か」
「残念ながらそのようだよ。参ったなぁ、妖怪退治は専門じゃないんだけど」
「どうした?いつになく弱気ではないか」
「なりたくもなるさ」
まるで綱渡りをしているような気分だ。綱の先は霞がかかったように一歩先もみることができず、谷底がどこまで深いのかも分からない。左右と背後にはべったりとした影がつきまとっていて、綱や体を揺らしては谷底に落とそうとしている・・・そんな気さえする。昴は額を掌で覆ってうなだれた。
「いかんのう」
ぬばたまは昴の傍らの古い柵に乗り移って、まっすぐに彼を見つめて言った。
「たとえ何があろうとも、お前が探すのはただ一人であることに変わりはない。手間は増えても目的は変わらんはずだ。悩むのは良いが、迷うのとはちと違う」
小首を傾げて、最後に一言「のう?」と同意を求めると、昴ははっとしたように顔を上げた。魍魎殺しの現場を見たときから、ずっと思考を覆っていた腐臭が、風に吹かれるように消えていった。知らぬ間に呪いを受けていたのだろうか、ややあってから昴は、安堵と自嘲の入り交じった微笑を浮かべる。
「確かに君の言うとおりだ、ぬばたま」
昴は懐から翡翠の簪を取り出した。それをじっと見つめて反芻する。彼は「その時はくる」と言った。だから迷うなと、そう言ったのだ。ここで起こっている一連のことが、自分の読み通りだというのなら・・・
「ぬばたま、こちらに来てもらって早々悪いんだけど、一つ調べてきてくれないか」
「ほ、調子が戻ってきたようだのう」
昴はいつもの不敵な笑みをぬばたまに返して続ける。
「ここで起こっていることが大体僕の読み通りなら、やっぱり翡翠に元々黒いシミなんてなかったんだ。僕たちは今、この翡翠の中にいる。ということは、この黒いシミは昨日魍魎殺しをした妖怪そのものと考えていい。つまり彼女はこれのせいで表に出て来れない状況にあるんだろう。そうでなければ、僕の呼びかけに、彼女がだんまりを決め込むはずがない」
そう、この翡翠の魂はとても素直なものだった。見た目に違わぬ純粋さで、以前自分の前に姿を現した。昨日のことのように覚えていることだ。
「このシミがいつから付いたのか、それを知る必要がある。ぬばたま、調べてこられるかい?」
「お安い御用だのう」
「おそらく日本舞踊のお師匠さんが亡くなってから、僕のところに戻ってくるまでの間、だ。どういう経緯を辿ったのかが知りたい」
「承知した。では早速行ってきよるわい」
ぬばたまはやる気に全身の羽を奮い立たせると、止まっていた古い柵から屋根へとひとまず飛び移った。この世界と元の世界を自由に行き来できるのは、ひこばえや双姫と違って媒体を持たないぬばたまだけ。世話しないが、今しばらく飛び交ってもらわないといけない。
「ああ、ごめん、ぬばたま。その前に一ついいかい?」
「なんじゃい、またかいな」
今まさに飛び立とうというところで、またもや昴に止められて、ぬばたまは渋々振り返った。
「高野という名前に聞き覚えはないか?どうやら見知っている仲らしいんだけど・・・」
「高野?さあのう、確かに聞いたような気はするが・・・」
「どこで?」
「忘れた」
「もう、君ってば最近物忘れが酷くなったんじゃないの?」
「無茶を言うな。これだけ長く生きてきて、すべてのことを逐一覚えておるわけはないのう。お前と一緒にするでないわ」
飄々とした口振りで言い残すと、ぬばたまは虚空を飛んでいった。昴は先日と同じように、その黒い一点が視界から消えるのを待って踵を返した。
「さて、僕も調べに行くか」
昴は肩をすくめてもう一度ため息を付くと、宵の花街へと歩みだした。