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「しかし、一度会うたことのある女に簪を返すだけだというのに、随分時間がかかるのう」
ぬばたまは羽の下をくちばしで掻いて、まるで他人事のようにバタバタと羽を振った。
「歌を贈ったのが徒になったよ。そのせいで彼女は今、どこかのご大家の主人に身請けされて行方知れず、ということになっている。誰に聞いても知らないの一点張りだ」
「だが、そのおかげで色町に出入りしておるのだから、満更でもあるまいに」
「冗談じゃないよ」
茶化すぬばたまに、昴は大きなため息をついた。
「誰が好き好んでしっぽや牙の生えた花魁の相手をすると思うんだい?化けるなら、もっと完璧を目指してくれればいいのに」
「そりゃあ、面妖な花魁なことで」
「それだけじゃない」
昴は腕を組んで、低い石垣から橋の向こうを見遣った。一目には今いる場所とは違って賑やかで、多くの人で活気にあふれた城下町。昴はそこへ射抜くような目線を送る。
「まさかもうこんなに雑鬼が入り込んでいて、ちゃっかり町を形成していようとはね。ほら、ごらん」
昴の指し示した町のはずれの方を、ぬばたまも石垣からのぞき込む。そこには妖怪の人間崩れ、ひどく土毛色をした顔、不自然に前かがみになって歩く様子、一番酷いのでは蚤のような顔に着物を着た者が店番までしていた。それを不自然とは思わない通りすがる人々もまた、まともな人間の姿をしていない。
「おやまぁ・・・あそこにいる人物、全員が雑鬼かいな」
「さっきの町娘もどきは、随分マシな方さ。こうなっては彼女が行方知れずと言うのも、ある意味で都合が良かったかもしれないね。あれらに一斉に来られちゃ、すぐに乗っ取られるよ」
「それで昴も奴らの正体に気づいていない振りというわけか」
「だから、冗談じゃないと言ったろ」
昴は肩をすくめて、もう一度ため息をついた。返すまでは元の世界には帰れず、また周りは醜い雑鬼ばかり。正直どちらか一方だけでも譲歩してほしいくらいだ。
「とにかく、そういう訳だから。ひこばえたちにも伝えておいて」
「あい分かった。わしもなるべくこちらに居るようにするわい」
ぬばたまは再び社の屋根に移って、飛び立つ準備に羽をばたつかせる。
「あ、そうだ、ぬばたま。君が覚えていたら教えてくれないかな?」
そこを昴が呼び止めて、ぬばたまは振り返った。昴は社に歩み寄って簪をぬばたまに差し出す。
「前にこれが持ち込まれた時と、何か違和感はない?」
「違和感?」
ぬばたまは三本足で方向転換をして、細めた目でじっと簪を見つめた。
「さて、どうかのう?特に感じぬが・・・」
「僕の記憶が正しければ、確か翡翠の中心にこんなシミはなかったはずなんだ。むらのない、綺麗な碧色だったと思うんだけど」
昴は石の中心を指し示して尋ねた。ポツンと一点、濃い墨を垂らしたようなわずかなシミ。透き通った淡い碧の中で、それだけが限りなく黒に近い深緑色をしている。昴はこの簪が戻ってきて手にしたときから、それがずっと気になっていた。
「はてな、分からぬの。人手に渡っている間に、傷か汚れでも付いたのではないのか?」
「ところが表面は滑らかなままだ」
「では、知らず知らずに表面がすり減って、元々潜んでいた模様が見えたのだろう」
相変わらずぬばたまは他人事のように、飄々と言い切った。昴は諦めたように目を伏せて、今一度翡翠を自分の方へ向けると、「それも一理あるかもね」と呟いた。
「調べるか?」
「いや、いいよ。もうじき日が暮れるし。明るいうちに、君は早く行った方がいい」
「あい分かった。ではまたのう、昴」
「ああ、気をつけて」
ぬばたまは羽ばたいて、まだ幾分明るい西の空へと飛んでいった。その姿が、ふっと遠くに消えるまで昴は見送って、昴は城下町とは反対側の花街の方へ歩いていった。
宵の花街は、色欲にまみれているせいか、城下町よりも格段におぞましい。腐臭がそこいら中を満たしていて、呼吸すら困難になる。昴はそれを堪えながら、灯籠の淡い光で照らし出された花街を歩いていた。見世には手招く花魁たち、もちろん完璧な人間の姿などではない。
「旦那」
そこを見世から呼び止める艶のある声。昴をなじみの客のように扱う花魁だったが、その背後にはは虫類のような尾が見え隠れしている。昴は尾を凝視してしまわないように慎重に振り返った。
「旦那、今日もおいでになりいせんの?いつもここへお見えになっておりますのに、そうしてふらふらと歩いているばかり。たまには私を買うてくださいましな」
「だから、ここへは人探しにきているだけだと言っただろう?」
「そんな野暮なこと、色男が台無しでおざんす。第一そうして毎日おいでになるということは、その人が見つかってないという証拠でござんしょう?ここでは枕をともにすれば分かることもあるでしょうに」
冗談じゃない、と心中で即座に呟く。そんな言葉は尾を完全に隠してから言ってもらいたい。
「そういうことなら、この店にはもう来れないな」
素っ気なく言い切って、昴は立ち去ろうと女郎に背を向ける。
「ああん、お待ちになって、旦那」
妙にしなだれた声で、格子の隙間から手を伸ばして昴の腕を掴む。ひやりとした冷たい指先に、一瞬にして背筋に悪寒が走った。
「旦那、私聞きましたんえ。翡翠太夫を探しておりんしょう?戻り花になるのならともかく、なぜ今更身請けされた花魁を捜しておりますの?」
急に低くなった声音で核心を突かれて、昴は鋭く花魁を見据えた。花魁の目は先ほどよりもぎょろりと見開かれて、舌先がわずかに二つに割れている。
「君には関係ない」
「そんなことはありいせん。私もね、昔禿だった頃に翡翠太夫にはお世話になっていたんです。旦那が彼女を捜し当てた暁には、私も是非お会いして、一言御礼を申し上げたいんですよ。ねぇ、旦那」
――嘘八百
昴は口の中でぽつりと呟く。体のいいことを言って、翡翠を独り占めして乗っ取ろうとしているのが見え見えである。それに呼応して、本性もさらけ出してくる。腕を掴んだ手はますます冷たく気味が悪い。それでもまだ人間の振りをして向こうが嘯いてくるのなら、こちらも嘘で返そうが構うまい。
「分かったよ。彼女が君にとって本当に大切な人ならそうしよう」
「もちろんそうしてくださいますね。心待ちにしておりますよ、旦那」
「それじゃ、彼女が早く見つかるように、君の知ってることも教えてもらおうか」
しつこくすがる花魁を逆手にとって、昴は鋭く聞き返した。途端に花魁は昴の腕をぱっと放し、袂を口元にあてがった。目線を流し、素知らぬ顔でしなだれる。そんな顔をしようが、何かを秘めているのは明らかだ。城下町を形成して、この世界を楽しんでいるだけの雑鬼と違って、花街に集まっている奴らは明らかに翡翠狙いである。何一つ知らぬまま、ここにいるはずはない。
「私は何も知りいせんよ」
花魁は急に素っ気ない態度をとって、昴から顔を背けたが、「でも」と言葉をつなげて再び振り返った。先ほどまで人間崩れしていた顔は、一瞬にして元の通りに戻っていた。
「旦那、ご存じですか?ここには旦那以外にもう一人、女を買わずに彷徨いている男がいるんですよ」
「男?」
「ひょろりと細身で、垂らした髪、無精な顔立ちの男ですよ。名前を聞けば、高野(こうや)だとか。彷徨く理由を尋ねても、訳を話すことはしませんが、どこか訳知り顔の輩なんです」
「高野・・・か」
知らない名だ。こちらでも、向こうの現実世界でも。
「翡翠太夫を探すなら、あの者に会うのも良いでしょう。でも旦那、お気をつけなさいまし」
「何をだい?」
「最近ここいらは物騒になりましてね。夜な夜な質の悪い妖怪が、人を襲っているという噂を聞きますえ。その高野というのが妖怪とも限りません。旦那も喰われんよう、気をつけて」
「質の悪い妖怪、ねぇ」
ならば自分たちは気のいい雑鬼だとでもいうつもりか。昴は少し肩をすくめるような仕草を取ったが、忠告であることに代わりはないので、「そうするよ」と素直に受けて会釈をした。
「次は買うてくださいまし」
相変わらず尾を出したままの花魁に見送られて、昴は花街の通りを歩いていった。