「ちょいと、コウさん、コウさんってば」

 下町の路地先で、粋な町娘が青年を呼び止めた。

「ずいぶん久しぶりじゃないの。最近はちっともうちの店に寄ってもくれないで。また色町に繰り出そうってかい?まったく、そんなにあの世界の女が良いもんでしょうかね?」

「そういう訳じゃないよ、探し人がいるって言ったろ」

 青年が諦め半分に言い聞かせても、娘は馬耳東風に切り返す。

「はいはい、どうせ忘れがたい女がいらっしゃるんでしょ?でもコウさん、あまりあの世界の女に肩入れしてると、そのうち竈を破られちまうよ。どうせならうちの店でそうしておくれな」

「かなわないな」

「まぁ、うちはいつでも待ってるからさ」

 そんな娘の声を背中で聞きながら、青年は一つに結わえた黒髪を揺らして、人通りの多い橋を渡っていった。ここは江戸にほど近い城下町。堀が町を囲い、長屋が軒を連ねる。町の入り口には商店が建ち並び、出入りする人や物で常に活気に満ちている。青年は、その喧噪が聞こえなくなるところまで歩いてくると、小さな社のために築かれた低い石垣に寄りかかって、懐から美しい髪飾りを取り出した。

 「ほ、まだ見つからんのかね?コウさん」

 どこからともなく、青年に声がかかる。青年はその声の方にゆっくりと振り返って、怪訝そうに眉根を潜めた。

「君まで僕をそんな風に呼ぶことはないだろう?ぬばたま」

 見上げた視線の先に、社の屋根に器用に三本の足を掛けた烏がいた。それは紛れもなく日頃、双姫神社に住み着いているヤタガラスであった。

「こりゃすまん。まるで面白い芝居を見せられているようでのう」

「僕としては、出来の悪い時代劇に無理矢理出演されられているような気分だよ」

 ふっと短くため息を付いた青年、この時代に合わせた格好の昴の傍らに、ぬばたまは居場所を変える。実は昴はもう何日も、こうして架空の城下町に身を置いていたのだった。違和感があったはずの浪人の出で立ちも、すっかり体に馴染んでしまった。今や立派な江戸の浪人・昴(コウ)さんである。

「向こうの様子はどうだい?」

 滑らかな烏の背を、手の甲でそっと一撫でして呟くように尋ねた。

「さして変わらんよ。友泰殿が何度か訪ねてきたが、そのたびに下闇の小僧に茶化されておったわ。ひこばえと双姫は事情を知ってるだけに落ち着いてはおるがな、このまま長く帰らんようではいずれ泣くぞい」

「そうだね。でも残念ながら、まだ当分帰れそうもないよ」

 昴は再びため息を付いて、手に持っていた髪飾りに目線を落とした。

 

 事の始まりは、数日前に遡る。

 

 

*    *    *

 

 「こんにちは、昴く・・・」

 最後まで言い終わる前に、石段をあがりきったところで友泰は蹴躓いて倒れた。足がもつれたわけでもなく、また小石一つ転がっていたわけではない。まるで何かに足下をすくわれたかのような感覚ではあったが、野良猫一匹通った形跡もない。友泰は訳も分からぬまま、そのまま地に腰を下ろしていた。

「すみません、友泰さん」

 すると昴には珍しく、慌ただしい様子でこちらへ駆け寄ってきた。手には見慣れない箒を携えて、落ち葉の季節でもないのに、境内のあちこちを掃いていた。

「大丈夫でしたか?」

 昴に手を差し出されて、それでやっと友泰は立ち上がった。改めて見れば、二人の狛犬も世話しなく境内を走り回っている。何とも物々しい雰囲気。

「何かあったのかい?」

 一瞬今日は来るべきではなかったかと、昴に窘められる覚悟でいたが、それとは裏腹にただただ彼の困った様子に、友泰は呆気に取られてしまった。

「いや・・・ちょっと雑鬼が増えてしまって」

「ザッキ?」

「魑魅魍魎といったらイメージが沸きますか?さすがの友泰さんにも奴らの姿までは見えないようですね。まぁ、その方がいいでしょうが」

「え・・・?」

 昴にそう言われて、非常にグロテスクな想像をしながら足下を見遣ったが、やはり何一つ見えなかった。が、足下を何かが絶えずすり抜けていくような、落ち着かない感じだけは何となく分かる。昴が見えない方がいいといったからには、そこには想像を絶する物がいるのだろう。背筋に悪寒が走る。

「一匹一匹は全然大したことはないのですが、いかんせん数が多くて・・・。祓っても祓い切れませんよ。おかげで僕と佐保、竜田は朝から走りっぱなしです」

「その箒は?」

「これで奴らを祓っているんですよ。箒はゴミを掃き出すという性質から、魔除けにも使われることがあるんです。とはいえ、ちゃんとした道具にはかないませんけどね。でもこの程度の小物妖怪なら、これでも十分なんです」

 そういってまた一掃き。掃かれた先は、見えなくても見ない。

「一体どうしちゃったんだい?今までこんな事はなかっただろう?」

「ええ・・・まぁ・・・原因は分かっているんですけどね・・・」

 昴は手を口元にあてがって、暫し黙り込んだ。境内を目線だけでぐるりと見渡して、「佐保、竜田」と呼びかける。

「少し休もう。朝からずっとこの調子だ」

 すると二人は低く唸って、そんなことはできないと首を振る。

「盛り塩をしておけば、少しの間は大丈夫だよ。それに、きっとすぐにはどうにもならないだろうし。休んだ方がいい」

 昴は箒を持ったまま、一度社務所へ入っていき、小皿に山盛りにした塩を二つ持ってきた。そしてそれを鳥居の下にそれぞれ置いて、さらに猪口に日本酒を入れてそれも添えた。足下がざわざわするような感覚が、ふっと消えた。

「事情を説明しましょう」

 それが済むと、昴はいつにもまして神妙な面もちで友泰を拝殿へ促した。友泰は訳の分からぬまま、昴の後についた。佐保と竜田は未だ不安そうに喉を低く震わせたが、「休もう」と言った昴の言葉に忠実に、拝殿の入り口に座り込む。

「どうぞ」

 昴に続いて拝殿に上がると、ふわりとひこばえが姿を現した。

「ご苦労じゃな」

「まあね」

 軽く言葉を交わしながら、拝殿の奥から高杯を一つ持ち出す。上には榊の枝が伏せられていて、中に何があるのか、まだ友泰には分からない。

「これです」

 さっと榊が取られて、そこにちょこんと乗せられている。

「わ、綺麗」

 思わず友泰は口にした。高杯の上には一本の簪が乗せられていた。ツタを巻くような曲線のデザインの中心に、碧の石が一つ据えられている。

「翡翠の簪です。時代はおそらく江戸後期」

「江戸?その割に随分状態がいいんだね」

「護るもの、宿るものが込められたものは、それがある限り朽ちることがないんですよ」

 それはこの社が今も健在であるように。言葉にする代わりに、そっとひこばえに目線を遣る。

「僕が普段見聞きしているのは、大体は物に込められた人の思いなんですが、この簪はそれとはちょっと違いましてね。宝石は魔性の物と言われるせいか、それとも元の持ち主が思いを込めて使っていたせいか、この簪はそのものに魂が宿っているんです」

「魂?」

「簪の精、と言ったらなんとなく分かりますか?」

 そう例えられて、友泰は深く何度も頷いた。昴はそっと高杯から簪を手に取る。

「実はこの簪、以前一度僕のところに持ち込まれているんです。その時は、とある収集家がコレクションとして飾るのに手に入れたようなのですが、夜な夜な自分を簪として使ってほしいと泣いてせがむので、供養してくれないかと頼まれたんです。それでひこばえの力を借りて、中に入りました」

「おお、そうじゃったのう」

「じゃあ、この人に会ったのかい?」

「ええ、会いましたよ。とても綺麗な人でした。とはいえ元々は簪ですから、最初にこれを誂え、とても大切にしていた花魁の姿を借りていました」

 それは今でもしっかりと覚えている。日本髪に切れ長の瞳、憂いを秘めた表情で、何とも言えない芳しいお香の匂いが漂っていた。終始俯き加減であったのが、大きく抜いた衣紋を強調して、指先のわずかな動きさえ色っぽく見えた。

「時が経つにつれ、物が使われなくなってしまうのは仕方のないことですから、お役目を終えてゆっくり休んではどうですかと打診をしたんですけどね。でも彼女はどうしても簪としてまだ使われていたいと強く懇願したので、歌を贈って気持ちを落ち着かせた後、日本舞踊のお師匠さんにお譲りしたんです」

「それは、めでたしめでたしってことじゃないのかい?どうしてまたここに?」

「残念なことに、そのお師匠さんが去年お亡くなりになったそうで。この簪はまた別の方の手に渡ったらしいのですが、その方には簪を使う機会がなかったそうなんですね。夜な夜な女性が枕元で泣くので、何とかしてくれと僕のもとに持ち込まれたんです。それでまた同じ事の繰り返しなんです」

 昴は目を伏せて、そっと簪を撫でた。分かる・・・この中には未だ魂が宿っている。そして同じ事を繰り返してしまっていることをひどく嫌悪し、後悔しているのだということが。

「これをもう一度別の方にお譲りするのは簡単なことですけど、結局同じ事になりかねないでしょう?」

「そうじゃのう、かといって火にくべたところで、相手が石では供養にはならんしのう。いっそ水にでも沈めるかえ?」

「それもいいけどね。でも僕は、これはもう本人に返すのが一番いいかと思って。いつまでもこうしておいても、雑鬼を呼び寄せてしまうだけだし」

 奴らにとって、魂を持った物は非常に魅力的なのだ。その力の一端にあやかろうと、或いはいっそ乗っ取ってしまおうと狙っては、あちこちから涌いて出る。仮に今完全に追い払うことができたとして、この先奴らに注意しながら保管していくには、あまりにもリスクが高すぎる。

「ふーん、なるほど、それで朝からおっぱらってたのか。でも、本人に返すっていっても、一体誰に?」

「誰って決まっているでしょう?」

 昴はおもむろに簪を軽く口元に当てた。

「簪の精に、ですよ」

 

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