「・・・そして、今に至るわけですね」
話の最後を昴が受けると、文江は小さく頷いた。一層深い哀しみが伝わってくる。彼女の心情はその時から何も変わってはいない。深い哀しみの深い水面で一人、涙で水紋を作り続けている。
「文江さん、世の中には輪廻転生という理があります。生きていらした頃がどんなに報われなくとも、次の人生でやり直しがきくこともありましょう。辰夫さんとも、ご縁があれば出会えるはずですよ」
昴は慎重に言葉を選んで文江を諭した。しかし彼女はそれにゆっくりと首を横に振る。
「私の魂がもう一度生まれ変わるのだとしても、この思いまでは持ってはいけないでしょう?」
だから体を捨て、魂を切り離し、思いだけをこの世にとどめた。借り宿をなくしても尚、この世にあり続けた。
忘れていいはずがない。そんなに簡単に忘れられていいものではなかった、あの人の命は。私が奪っておきながら、どうしてそんなことができようか。縛り付けてしまえ、ちぎれぬ鎖で川底に。水面の流れなど知ることもなく、その場に居続ければいい。
「・・・忘れることが、誰かのためになることもあります」
頑なな文江に、呟くように昴は言葉を重ねた。すると文江は、昴の顔を見て弱々しいながらも微笑みを浮かべた。
「優しいのね、貴方」
それが柔和なものであったらどんなにか良かったか。微笑みを浮かべても文江の悲壮感は拭えない。
「でも・・・いいんです、私のことは。どうぞこのままにしておいて」
「しかし・・・」
「だって、まだ・・・まだこんなにも・・・涙は枯れていませんもの・・・」
文江は果てない水面を見上げて、ポロポロと涙をこぼした。今までずっと泣き明かしていたにもかかわらず、涙は次から次へと溢れだして止まらない。
約束しましたから・・・せめてこの涙が枯れるまで、と。
昴はこみ上げてくる胸の痛みを、眉間にしわを寄せてぐっと堪えた。彼女が望みさえすれば、すぐにでも助けてあげられるものを、今はどうしたって望ませることができない。哀しみに相俟って、無力だという思いが沸き上がってくる。
「・・・分かりました」
昴は押しつぶされるような喉の痛みを飲み込んで、ようやっと呟いた。彼女がこれ以上気に病むことがないようにと、顔にはいつもの微笑を戻す。
「では、せめてもの慰みに貴女に借り宿を差し上げましょう。外では今日、ちょうど夏越の頃ですから、お誂え向きのものを持っています」
昴はそう言うと、一緒にこの世界に持ち込んでいた形代を一枚取り出した。
「まぁ、大祓の神事ね。お芳に聞いたことがあるわ。夏越というのは昔の言い方でしょう?水無月の終わり・・・梅雨明けの頃」
「ええ」
ああ・・・覚えているわ。辰夫兄さんはちょうどその季節が好きでいらしたの。私がまだ十四の頃だったかしら。雨上がりの窓の外から辰夫兄さんが私を呼んだわ。「ほらごらん、虹がでていますよ」と。今はもう・・・川底からは決して見えない。
「魂きはる 幾世を渡れど たづかなく 救い給はな 夏越の形代」
昴がそう詠むと、彼女の姿はまた絵の具が水に溶けていくようになって、昴の手元の形代に吸い込まれていった。
ありがとう・・・貴方
目に涙を浮かべた彼女が、そう言ったのが聞こえた。昴はその場に形代を静かに置いて、しばらく見つめていたが、やがて意識が上へ上へと引っ張られていき、川底の形代は見えなくなっていった。
夏越の形代は、その身に罪を移して水に流れることで、すべてを洗い流すのだという。流れのない、とどまったままの川底の形代もまた、そうしてくれるだろうか。