私は名を文江といって、あの洋館、吉森家の娘でした。
豪邸と言うものではありませんでしたが、生活はとても豊かで、私は何不自由なく育ちました。母が早世してしまって、寂しく思うところもありましたが、優しい乳母がいて、日々平穏に過ぎておりました。
そんな生活が一変したのは、私が女学校をもうじき卒業する頃でした。父は急に私に結婚するよう申しつけたのです。父はちょうど手をかけていた事業が行き詰まり、私に嫁ぐように言ったのも政略があってのことでした。私は泣いて嫌がりました。その結婚相手というのが、私とは年が二回りも離れている上に、妾を何人も囲い、お金を使って何でも思いのままにする、そういう男だったのです。結婚は政略、私に至っては妻ではなく、老後の慰み物でしかありませんでした。私は何度父に泣きついたことでしょう。しかし間近に見えている資金に、父は結婚を拒むことを許さず、日頃あまり折り合いのよくなかった継母も、今結婚しないのは家の恥だと申しました。私に逃げ場はありませんでした。
輿入れが迫ったある晩、私は自室にこもって泣いておりました。私がこれほど絶望していてさえ、まだ何とかやってこれたのは、幸いにも慰めてくれる方がいたからでした。
「そう泣いてばかりいないで、文江お嬢さん」
それは乳母の息子で辰夫さんとおっしゃって、小さな頃から一緒に過ごしてきた方でした。三つほど年上であったので、私は兄さんと呼んで慕っておりました。
「案ずるより生むが易しって言うだろう?一緒になってみたら、いいことの一つや二つ、見つかるかもしれないよ」
「ああ、そんなことおっしゃらないで、辰夫兄さん」
いいことなんてないに決まっています。この先に待っているのは辛い結婚生活だけなのです。なぜあのまま母様が生きていらした頃のように、平穏なままでいられなかったのでしょう。
そして私はとうとう言ってはいけなかったことを、口にしてしまったのです。
「私、死んでしまいたいです」
それは物の弾みでいった言葉ではありません、決してそうではなく本心だったのです。するとそれが兄さんにも分かったのでしょう。
「君が本気でそう願うのなら、君が寂しくないよう、僕も一緒に行くよ」
兄さんの言葉に、私はハッとなって顔をあげました。他の人からしてみれば、たったそれだけのことでと言う方もいるかもしれませんが、私はその瞬間に確かに兄さんに恋をしたのです。いえ、本当はずっと昔から好きだったのかもしれません。控えめではあったけれど、とても穏やかで優しい人。私は兄さんの言葉に、心がほっとなるのを感じました。
そして、父や継母の目を潜んで、兄さんと一夜をともに過ごしますと、明け方に家を出て橋の上に立ち、兄さんと一緒に身投げしたのです。
それから、どのくらい経ったのでしょうか。私は気がつくと、自室の布団に寝かされておりました。自分に一体何があったのか・・・、よもやあの夜のことが夢であったのかとすら思いました。
「辰夫兄さん・・・?」
譫言のように呟きますと、傍には乳母のお芳がおりました。
「お嬢様?!ああ、お気づきになったのですね?!」
「お芳・・・」
「ようございました。ほんに・・・!芳はどれほど心配したことか・・・」
お芳がボロボロと大粒の涙を流してそう言うので、私はやはりあれが夢ではなかったのだと確信しました。
「お芳・・・辰夫兄さんは・・・?」
私が尋ねると、お芳は額を畳にこすりつけて更に泣きました。
「どうかご堪忍を、お嬢様・・・!まさか・・・まさか私の不貞な息子が、お嬢様をそそのかしてあんなことを・・・」
「お芳・・・何を言っているの・・・?!」
「お嬢様が御結婚を悩んでおいでのところにつけ込んで、なんと浅ましい真似を・・・!芳は・・・芳はお恥ずかしゅうございます・・・」
「いいえ、違うわ・・・違うのよ、お芳。私が・・・私が辰夫兄さんに言ったのよ・・・!」
「お、お嬢様・・・どうぞ息子に言われたのだとおっしゃってくださいまし・・・。そうでなければ芳は旦那様に顔向けできません・・・」
「どうしてそんなことを・・・」
「お嬢様はお小さい頃から、この芳がお育て申し上げました・・・。そのお嬢様が旦那様の意にそぐわないことをなさっただなんてことになったら・・・芳は・・・どうしたら良いというのでしょう?!」
お芳の言うことも、分かることではあったのです。乳母の育て方に非があったとしたなら、芳がどんな仕打ちにあうか分かりません。
「た・・・辰夫兄さんは・・・?」
まさかもうお父様に仕打ちを受けているのではと、私は不安になって尋ねました。
「・・・お嬢様、あれは死にました」
「・・・え?」
私は芳の一言に、心が凍り付くのを感じました。ずしんと鉛のような固まりを、一気に飲み込んだような感覚があったのです。
「お嬢様が見つかったところより、ずっと下流のところで、息子の骸が上がりました。もうここにはおりませぬ」
「そ・・・そんな・・・」
「お嬢様、芳もこれきりでございます・・・」
お芳は涙でびしょぬれの顔を上げますと、私にすがって、私の手をしかと握りしめました。
「旦那様よりお暇を仰せつかりました。明日にも出て行かなくてはなりません。お嬢様、差し出がましいかもしれませんが、お嬢様も私のお育てした子でございます・・・!辰夫の分までどうか・・・どうか健やかに・・・」
お芳はその言葉通り、次の日から私の部屋を訪れることはありませんでした。私は心の拠り所をすべて無くしてしまったのでした。
それから数ヶ月の後、心に重いものを抱えながらも体の方は何とか回復した頃でした。父が私に決定的なことおっしゃったのは。
「体が十分なら、文江、婚儀の用意をしなさい」
「・・・え?」
私はあのことがあってから、もはや結婚はしないだろう、させないだろうと考えておりました。この心に枷をはめて、一生をかけて償う心づもりでおりました。
「結婚って・・・どなたと・・・?」
「決まっているだろう、牛島殿とだ」
それは当初結婚するはずだったあの男。私は我が耳を疑いました。
「まさか・・・お父様、だって私は・・・」
結婚を拒んで身投げまでした女。そう最後まで言葉を続けず父に問いました。
「牛島殿はそれでも良いと仰っているんだ。よく考えてもみなさい。今更、他の誰のところへ嫁ぐというのだね?あんなことがあっては、見合いなどできるはずもなかろう」
私はこの時になって、初めて自分で自分の道を閉ざしてしまったのだということを痛感いたしました。そして今度こそ逃げ場はないのだと。お芳はもうこの家にはいない。辰夫兄さんも・・・
「それに幸いなことに、牛島殿はあのことを一切なかったことにしてくださるそうだ。あれのことは、あまり外には出さなかったから、乳母に息子がいたことを知るものは少ない。お芳のことにしても、体調を崩したということにすれば言い訳が立つ」
「なかった・・・こと・・・に・・・」
兄さんは私のせいで死んだのに?私が殺したも同然なのに?それなのにいなかったことにしてしまうなんて・・・
私は息もできないほど胸が痛くなり、自室にこもると一晩中泣き明かしました。そして明け方になって思ったのです。
(あの結婚をしては駄目。あの結婚は兄さんを消しさってしまう・・・そんなことは許されない・・・!)
私は決意を固めると、あの朝と同じ頃に家を出て、そして同じ橋の上に立ちました。
「・・・兄さん、ごめんなさい・・・。お芳、許して頂戴」
せめてこの涙が枯れるまで、私、償い続けるわ・・・