昴が目を開けると、そこはどこかの家の庭先だった。明治の終わりか、大正時代だろうか。目の前には洋館があったが、その中にどことなく和を感じさせる。白い壁に、アーチ状の窓ガラス。財閥というほど大きなものではないが、それでも裕福な家なのだろう。ビルのないこの時代、洋館はこと大きく見える。
「僕はさしずめ書生、といったところかな」
昴は自分の姿を見て呟いた。シャツを中に着て、その上に着物と袴を着ている。体を締め付ける感じはなく、とても動きやすい。
「ずいぶん静かじゃのう、昴」
「うん、人がいない」
頭の中にひこばえの声が響いてくる。確かに、誰一人の姿も見えない。家人の不在というにも、あまりにも人気がなさすぎる。
「確かにここのはずなんだけど・・・」
それなのに人どころか鳥の姿さえない。そして何よりあまりにも不安定。拠り所のない状態で入り込んだせいか、すぐに霧散してしまいそうなほど、この世界は儚い。まるで泡沫の夢の中。昴でさえ、一歩を踏み出すのをためらった。
「一度戻るかえ?」
「ん・・・ちょっと待って」
誰にも会わないようでは、何も解決できない。昴は綱渡りでもするかのような心持ちで、一歩を踏み出した。
「あ・・・」
途端に昴の全身に鳥肌が立った。踏み出した足が着地しない。夢の中とはいえ地面はあるはずなのに、空中に足を出したかのよう。そしてそのまま更なる深淵へ落ちていく。
「昴?!」
ひこばえは慌てて昴を現世の拝殿に呼び戻そうとしたが、間に合わなかった。洋館は一瞬にして消えていき、昴もそれに飲み込まれていくように姿が見えなくなった。
「昴・・・昴!!」
名を呼び続けど、返事も姿も返らない。ひこばえは入り込んだ世界を見失って、一人現世に戻されてしまった。
「・・・ひこばえ?」
ややあってから、昴は呟くように呼んでみた。しかしその声の余韻を飲み込むような静寂がそこにあっただけだった。昴は反射的に閉じていた目をゆっくりと開けて辺りを見渡した。だが見えるものなど何も無かった。そこは前も後ろも、右も左も、上も下さえも分からなくなるような、真っ白な無の世界だった。音もなく、色もない。どこまで続いているのかも分からない、恐ろしいほど真っ白な世界。
「・・・こんなところ、初めてだ」
昴には珍しく不安そうな面もちで、その場でぐるりと見渡して、それから自分の姿を見た。あの洋館にいたときは袴姿であったはずが、今は現世にいた時の洋服に戻っている。ひこばえの力の庇護にあったとしたら、こんなことはまず起きない。
「しまった・・・、ひこばえとはぐれたか」
その言葉すら、白の世界が飲み込んでいく。誰にも、届かない。
* * * * *
「大変じゃ!!」
そのころ現世では、ひどく慌ててひこばえが拝殿の戸を開けた。あまりに急だったので、友泰も青葉闇もすっかり驚いて身が固まる。
「ど、どうしたの?ひこちゃん」
「双姫、双姫、早う!」
ひこばえは友泰の問いを一時無視して、二人の狛犬を呼びつけた。佐保と竜田はそれを聞いて即座に石の台座から飛び出す。
「ひこちゃん?」
ひこばえは顔を真っ赤にして、今にも泣きそうな面もちだった。いや、すでに半ベソの状態であった。昴が拝殿から出てこないのが気になる。友泰の脳裏に、先日の鬼女とのことがよぎる。
「何かあったの?!」
「昴を見失った!どこかの世界に行ったままじゃ!」
「見失った?じゃあ昴くんは?!」
「戻っておらぬ!わしも・・・どこへ行きやったか分からぬ!」
ひこばえは長い黒髪を左右に大きく震わせた。
「でも・・・そのうち戻ってこられるんだろ?昴くんのことだもの。きっと自力で・・・」
「そ、それも分からん・・・こんなこと、これまで一度もなかったのじゃ・・・」
とうとうひこばえの両目から大粒の涙がボロボロとこぼれだした。座敷童子として友泰よりずっと長く生きているといっても、その姿は子供が泣いているのと変わらない。友泰の心がぎゅっと締め付けられる。
「と、とにかく探さなきゃ。みんなで手分けするんだ。全然思いもしないところにいるかもしれないし」
「そ、そうじゃ。双姫も、青葉闇も・・・」
「俺もだよ。もしかしたらこの世界のどこかってこともあるだろう?さ、みんな行こう」
友泰の一声に、あの青葉闇でさえ素直に探しに動き出した。ひこばえも、佐保・竜田も大きな力を持っているのだもの。青葉闇だって天邪鬼なのだから、人とは違う力を持っている。何か手がかりくらい掴めるはず・・・、そう友泰は自分に言い聞かせた。けれど・・・
――「物には強い思いが宿っているんですよ。僕はただそれをたどっているだけです」
いつか聞いた昴の言葉が頭をよぎる。その物がない今、一体どうしたら・・・
* * * * *
「・・・友泰さん?」
不意に彼の気配を感じて、昴は名を呼んでみた。けれど、やはり何もない。行けども行けども白の世界。始まりがなければ、果てもない。最初はなんて途方もなく広い場所だと思ったけれど、いや、そうではなくて本当はとても狭いところで、自分がちっとも進んでないのかもしれないとも思えてきた。あまりに長くいると、気が狂いそうになる。昴はため息をついた。
(彼の気配を感じたということは、あまり遠いわけでもないのかもしれない)
たとえば少し右にそれたら、たとえば少し上にジャンプしてみたら、元の世界に戻るのではと戯れに考えてみる。しかしあまりに無垢すぎる世界は、そうする気さえ削いでいく。せめて白くない物が一点でもいいからありはしないだろうか。
(そういえば、あの哀しみの元は?)
ふと思い返して気配を探ってみる。もしかしたらここにいるのかもしれない。
(・・・近い)
まだまだ微弱ではあるけれど、拝殿で探ったときよりもずっと確かに感じる。
「貴女ですか?」
昴は確信を持って、白の世界の一点にそう問いかけた。するとそこに、じわりと、絵の具が水に溶けた時のように色が滲んできた。藍に、桃色、黒・・・それらが集まって、だんだんと人の形になっていく。
「・・・私が分かるのですか?」
だいぶ色が濃くなってから、ようやくその色の固まりはほつりと呟いた。か細い声、長い黒髪を一つに結わえ、桃色の着物に藍の袴。清楚で整った顔立ちだったが、生気はなく、うつろな面もちだった。
「ここに来る前に、とある洋館を見てきましたよ。あれは貴女の見ていた夢ですか?」
「ええ・・・私の家でした・・・」
女性はぺたんと座り込んだ体勢のまま、上を見上げるように首を傾げて呟いた。声に覇気はない。自分の家に執着するような素振りもなく、ただこの白い世界に根を張ったように座り込んでいるだけ。
「どのくらい貴女はここにいるんですか?」
昴は座り込んでいる彼女の傍らに、静かに腰掛けて尋ねた。
「さあ・・・もうどのくらいでしょう・・・」
彼女はゆっくり俯いて、抑揚のない声で返す。横の髪がはらりと彼女の頬にかかり、儚さを増長させる。昴はそんな彼女をしばらく黙って見つめていた。傍にいるだけで、彼女の深い哀しみが伝わってくる。できることなら、その哀しみに追い打ちをかけるようなことはしたくはない。けれど・・・
「あの・・・失礼ですが、貴女はもう・・・」
昴が切り出すと、彼女は顔を上げて昴と目を合わせた。とろんとした虚ろな瞳は、泣きはらして赤くなっている。
「・・・知っています」
思いも寄らぬその一言が、昴の胸に突き刺さる。
「私はもうずっと昔に死んでいて、お外は私が生きていた頃とは全く違うものになっているのでしょう?」
昴はゆっくり頷いた。
「物には魂や思いが宿ると、よくそう言いますけれど、貴女は借り宿にしていた物を失ってしまったんですね。今の貴女は強い思いだけで、その姿を保っている、そうでしょう?」
昴が尋ねると、今度は女性の方が頷く。
「今はもう・・・何に宿っていたのかも、忘れてしまいました」
今更そのようなことはどうでもいいのだ。この思い・・・この思いさえ残っていれば、それで。
「何を哀しんでいるんですか?そんなに」
その一言に、彼女は核心を突かれたように、僅かに虚ろだった瞳を丸くした。
「まさかそれすらも、忘れたわけではないのでしょう?」
昴がもう一言添えると、彼女は伏し目にして一度俯いたが、先ほどよりもはっきりとした声で切り出した。
「聞いてくださいますか?」
昴は何も言わずに頷いた。