あの人は梅雨の終わりが好きだったわ。雨が上がった後の潤った空気、湿った土のにおい、葉に貯まった露の一滴さえ輝く雨上がり。青空を背にして、あの柔らかな声で私に言うの。

ほらお嬢さん、虹が出ていますよ、と。

 

 

 

 「わぁ、昴くん、これなんだい?」

 雨が上がってじわじわと気温が高くなる昼過ぎに、友泰は双姫神社を訪れた。そして拝殿の前に大きな草の輪が出ているのを見て、思わず尋ねた。

「茅の輪ですよ。初めて見ますか?」

「ちのわ?」

「もう六月も終わりですからね。今日は水無月の大祓えなんです。夏越の祓えといった方が分かりますか?」

「いやぁ・・・はは、どっちもよく分からないなぁ」

 ちっともピンとこない友泰は恥ずかしそうに後頭部を掻いた。昴はそんな彼を微笑ましく見ている。雨が降って空気がしっとりと心地よい。こと、大きな木に囲まれた双姫神社においてはそれも倍増する。ここには今日も穏やかな空気が満ちていた。

「夏越の祓えというのはですね」

 昴は茅の輪に触れながら、静かに切り出した。

「一年のちょうど半分、上半期が過ぎた所で、この半年間の間に知らず知らずに蓄積してしまった穢れや罪を祓う祭りのことなんですよ。そのために、この大きな茅の輪が必要なんです」

「ずいぶん大きいね。二メートルくらい?」

「そうですね、それくらいになりますかね。萱でできているんですよ」

「これを一人で?」

「いえ、色々と手伝ってもらいましたけどね」

 昴はふふふと笑って返した。無論双姫神社で手伝ってもらったと言えば、近所の人にということではない。昴がはっきりと明言しなかったところを見ると、友泰の予想は当たっていたのだろう。

「無事、立派に建ったよのう、昴」

 不意に拝殿の入り口に、ひこばえがふわりと現れた。ふっくらとした柔らかな頬に、重たげな黒髪、童顔に似つかわしくない古風な口調はいつもと変わらない。

「ひこばえもご苦労様。ずいぶん沢山形代を作ってくれたんだね」

「こんなもの、朝飯前じゃ」

 そういうと、ひこばえは足下に置かれていた高杯に、ばさりと白い紙の束を乗せた。

「そうだ、せっかくだから友泰さんもやっていきますか?」

「え?いいのかい?」

「是非どうぞ。もっとも、友泰さんの場合は穢れや罪というよりは、災いを避ける意味合いの方が強いですけどね」

 昴はいたずらな微笑みを見せると、ひこばえが置いた紙の束から数枚取り上げて友泰に一枚差し出した。それは紙を奴凧に似た形に切り取ったもので、単純なようでありながら、手に取ってみると、なるほど人外な力によって作られたものだということが窺える。左右が寸分違わぬ対照であり、大きさも皆同じ。しかしそうでありながら、紙には下書きの後もないし、折り目もない。

「すごいね、ひこちゃん。器用なんだね」

「何ということもない。ただの切り紙じゃ」

 ひこばえはツンとして強がって見せたが、その頬はどこか赤らいで照れているのが丸分かりであった。

「な、な、そりゃなんじゃ?」

 するとそこへ榊の木の下から、おかっぱ頭の童子が駆け寄ってきた。つり上がった糸目は、常に何か楽しそうなものを探している。

「やぁ、青葉闇くん。ほら、夏越の祓えだってさ」

 友泰が振り返って形代を広げて見せた。青葉闇はそれをじっと見て、それから交互に友泰の背後の茅の輪も見遣った。何も口にはしなかったが、興味津々であることは一目で分かる。

「お前もやってみるかい?青葉闇」

 昴がそれに気がついて一言声をかける。

「やらん。オイラやらないもーん」

「そう、じゃ、後でね」

 今まさに茶化すように青葉闇が返事をしたというのに、昴は素っ気ない態度をとった。彼が本心と逆のことをいっているのは十分に承知している。傍らにいる引っかかりやすい茶髪の青年と違って、昴はその扱いをよく心得ていたのだった。

「えーっと・・・、それでこれをどうしたらいいのかな?」

 友泰は形代を片手に昴に尋ねた。

「まずは茅の輪潜りをするんです」

「茅の輪潜り?」

「地域や社によってやり方は様々ですが、うちのは特に簡単です。輪の中を左回り、右回り、左回り・・・と8の字に3回通ってください」

 昴は説明にあわせて指で空中に8の字をくるりと描く。

「それからその形代で体を軽くなでで、息を二回吹きかけます。それで半年分の汚れがその形代に移るので、川に流して清めるんですよ」

「なるほど」

「「水無月の 夏越の祓い する人は 千歳の命 延ぶというなり」・・・そんな詠み人知らずの歌があるくらい、大事な年中行事だったんですけどね、明治の頃に一度、この名目で行うことは禁止されていたんですよ。それが戦後になってやっと緩和されて今に至るんです。今は夏越といえば行事ではなくて、季語と思い浮かべる方が多いかもしれませんね」

 昴は伏し目がちに言葉を続けた。そういう話し方をする時、友泰はいつも昴のまつげがとても長くて綺麗だと思って見ていた。そしてそれ以上に、昴の話し方に懐かしさにも似た雰囲気を感じ取っていた。まるで昴が悠久の時を生きてきたかのような・・・。まさか、昴は自分より年下ではないか。

「昴くんは何でも知ってるんだね」

 そう言ってはみても、暖簾に腕押し。昴は答えることなく、ただにっこりと微笑むだけ。もう何度、その微笑みに口をつぐんできたことか。そしてこの先も当分は打開できる気がしない。

 

 「さて、ならば、わしもやってみるかのう」

 拝殿の入り口に座り込んでいたひこばえが、高杯から一枚形代を取った、その時だった。

「・・・?!」

 昴が何かを感じ取って、ぱっと鳥居の方向に向き直った。参道に朱塗りの鳥居があって、左右を佐保と竜田が微動だにせず鎮座している。いつもと変わらない光景。雨上がりに時折木から滴がしたたり落ちる音だけが、昨日には無かったことだったが、その他は何も変わったところは見受けられたかった。

「・・・どうかした?昴くん」

「いえ・・・今誰か来ませんでした?」

 昴は友泰に答えたようでありながら、同時にひこばえと青葉闇にも問う。だが他に誰がいるというのだろう。石段を上がってくる影もなし、木の影にも誰もいない。目に見える相手ではなかったにしても、特有の気配がまったく感じられない。

「気のせい・・・じゃないのかい?昴くん」

 ややあってから、控えめに友泰は呟く。とはいえ、自分の言葉に自信などない。昴の気がつかなかったことを自分が先に気づくことなど、今まで一度たりともなかったからだ。昴はその間、ずっと眉間にしわを寄せていた。風が吹いても、昴だけはその影響を受けていないかのように微動だにせず、境内をくまなく見渡した。

「・・・ひこばえ、君はどうだった?」

 昴は振り向くことなく問う。

「わしも何も感じんかったの」

「青葉闇は?」

「オイラ感じた!すごく強く感じだぞ!」

「そう・・・」

 この二人ですら気がつかなかったか。確かに自分の感覚にしたって、ほんの一瞬のことだった。今もまだ気配を感じるかと言われれば、もう風に吹かれてどこかへ行ってしまったか、何も感じない。

「気のせい・・・ですかね」

 口に出して言ってみて、改めて違和感を覚える。気のせい・・・そんなはずはない。たった一瞬でも、一つだけ、はっきりと直感したことがある。あれは哀しみだ、とても深い。それが傍にあるだけで、自然と涙が溢れてくるような、そんな強い哀しみだった。

「ひこばえ、ちょっと力を貸してくれないか?少し探ってみる」

「わしで良いのか?外で感じたことなら、双姫の方がやりよいであろう?」

「はっきりとした姿があるならね。でも、こんな曖昧な状態では二人には辛い。家という媒体を持っているひこばえの方が、きっと入り込みやすいよ」

「そうかのう、まぁ入りや」

 ひこばえは腑に落ちない様子ではあったが、もはや何を言っても昴は心を変えぬだろうと、拝殿の中へと引き寄せた。

「すみません、友泰さん。少し待っててください」

「うん、分かったよ」

「青葉闇、あんまり友泰さんをからかうんじゃないよ」

「うん、分かったよ!」

 信用ならない天邪鬼の返事に、昴は困ったように微笑んで拝殿の戸を閉めた。

 

*         *          *          *          *

 

 拝殿の中は、相変わらず外の様子も知らないでひんやりとどこか涼しい。外界の音の一切を断ち切って、しんと静まり返っている。昴はそんななかで目を瞑り、もう一度あの気配を探ってみた。

――分かる・・・

 やはりいる。しかし非常につかみにくい。まるでそれは気がついたとたんに消えていってしまう水紋のよう、ゆらりと揺らめいたかと思うと、鏡のような水面に戻る。

「どうじゃ?」

 ひこばえが控えめに問う。

「うん・・・、やっぱり誰か来ているよ。ひこばえ、僕が合図したら送って」

「分かった」

 昴はそういうと目を瞑ったまま、息を深く吸い込んだ。そしてその息をゆっくりと吐き出していく。体の力を抜いて、肩が下がるように、意識を下へと落とす。葉から滴り落ちた滴が、すーっと落ちていって、ずっと下の、深い水面に到達するイメージ。

「・・・いいよ」

 昴の姿は滴と一緒に落ちていき、そしてややあってふわりとたどり着いた。

 

 

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