「私は・・・とある小さな武家に女官として仕えた者です。」

 

 女性はほつりほつりと昴に続くように話し始めた。話すことを躊躇うような一瞬と、言葉が止めどなく溢れてくるように続ける一節とが混ざりあって紡がれていく。

 

「その家の年若い主君と私は、内縁の関係にありました。尤も・・・まだ正妻となる方を娶ってはいませんでしたから、私はそのご寵愛に預かれたのです。私はそれで幸せでした。あの方が側にいるだけで何もかもが十分だったのです。けれど・・・」

 

 黒雲は少しうなるようにぐずついて、まるで女性の心模様をそのままに表しているかのようだった。

 

「ご存知ですか?三河の辺りではまた戦が起きたというのを。あの方はそれと知れるとすぐに、戦に馳せ参じるよう主からいいつけられました。けれどその戦は野武士の小さな小競り合いのようなもので、わざわざ相模の国から行くほどのことなのかと、おそれ多くも私は尋ねたのです。」

 

「何故そう思ったのです?」

 

「・・・あの方が主としてお仕えしている大きな武家が、戦に長けて都からもお声がかかっていたあの方を疎んでいたのを知っていましたから・・・。でっちあげの戦を使って、陥れるに違いないと真っ先に感じたのです。そしてそれをあの方も承知でいらしたのに・・・。」

 

 女性は最後を言葉に詰まらせて、涙をすすり上げた。口元にあてがった指先の下で、必死に涙を耐えているのが分かる。

 

「いえ・・・あの方はきっと、私よりもずっと主のことを分かっていたのでしょう。このまま何もせずにいれば、いずれお家断絶にもなりかねないと。ならばいっそのこと、戦の中で華々しい武勲に身を委ねて、卑しい主の元を離れようとしたに違いありません。残った財は親類縁者に分け与え、住み慣れた家の中をすっかり綺麗にしてしまいました。内縁の私には、もうあの方しか残されていなかったのです。」

 

 

 昴は切なる女性の話に、むやみに口を挟まずただ聞くに徹していた。時折小さく頷いては、その言葉の先を引き出してく。周りはザワザワと実に騒がしく枝が擦れ合っていたが、女性の高くか弱い声は不思議とはっきりと昴の耳に聞こえていた。

 

「私も何もかもを共にする覚悟で、あの方の旅路に同行しました。けれど甲斐の国との境まで来たところで、"女の足では荷が重い"と私は元来た道を引き返すように言われたのです。それをどうして承知することができましょう。私は置いて行かれぬよう懇願いたしました。すがって泣いて・・・どれほど我が儘を申したか・・・。けれどあの方は決して私の言葉に頷くことなく、馬を走らせて一人行ってしまいました。"女のお前には他に生きていける道がある"・・・最後にそうおっしゃって・・・」

 

 そして見えなくなった馬にまたがるその姿。いつまでもいつまでも忘れ得ぬ、振り返らざるその背中。

 

「あの方が言い残したとおり女である私なら、他の武家屋敷に仕えることも、元々嗜んでいた舞でどこぞに取り入られることも十分に可能だったことでしょう。けれど・・・けれど!私にはあの方がすべてだったのです!その方がもう傍らにはいらっしゃらないというのに、今更私が何をすると言うのでしょうか?!」

 

 愛することも仕えることも舞うことですらも、ただ偏にあの方のためだった。それが今は抜け殻のようなこの心。もう他の誰のためにも同じことができようはずもない。

 

「あの方がいらっしゃらないのなら、私はもう人であることも女であることにも意味などないのです。それならばいっそ高尾に住まう天狗様にお会いして、その神通力でこの身を烏に変えて頂こうと思ったのです。そうしてあの方にもう一度お会いしたい。私は不安なのです・・・この黒く染まった同じ空の下にあの方もいらっしゃるのだと思うと、私と同じ思いでいらっしゃるのではないかと・・・そのお体が雨に濡れてはいないかと・・・。今まではいつも一緒におりましたのに・・・」

 

 昴はそう思いを馳せている女性の、赤く血で染まった背中を見た。鏡のないこの時代では、自分の背中を顧みることなどできようはずがない。鋭く切り裂かれ、致命傷となるほどに深い傷。それに犬を無意識に嫌がるところを見ると、当時高尾の山を歩いている内に野犬に襲われて息絶えたのだろう。そしてそれを知らぬまま、何百年と同じ山路をさまよい歩く血染めの背中。

 

 

 

 

 「・・・あの方にもう一度会えるなら、何をも犠牲にする覚悟がありますか?」

 

「え?」

 

 昴の言葉に女性は短く聞き返す。

 

「高尾の天狗殿の神通力で烏となったなら、もう二度と人間の姿には戻れません。そうして虚空を飛んでいき、よしんばあの方を見つけたところで、貴女は人の姿でまみえることはできないし、もちろん人の言葉を話すこともできません。あの方はその烏が貴女だとは気づかずに退けるかもしれない。それでも御身を烏に変える、その覚悟はありますか?」

 

 昴は思わず立ち止まった女性に合わせて自分も歩みを止め、振り返ってはしかとその目を見た。女性は少し顔を上げて、笠の縁からその瞳をのぞかせている。

 

「何故・・・何故そのようなことを?あ、貴方様はもしや・・・」

 

 しかし女性の言葉の途中で、昴はゆっくりと首を横に振る。

 

「いいえ、私は天狗ではありませんよ。けれど高尾の天狗殿を知っているのです。・・・もう長くさまよい歩いて貴女も疲れたでしょう?お越し頂くよう、呼んで差し上げます。」

 

 昴は懐からぬばたまの羽を取り出して、それを仰ぐように数回振った。途端に風が巻き起こる・・・そのような小さな羽を振ったところでそよ風だに起こすことはできまいに、不思議と高尾の山中を風が吹き抜けていった。不意に渦巻く風が一迅、大きな木のてっぺんから葉を揺らして降りてくる。

 

「来たか、昴よ。」

 

 威風堂々、その姿に女性は腰を抜かして座り込んだ。目の前に降り立ったのは高尾の天狗。身なりは山伏そのもので、結袈裟にすずかけ、頭には六角の頭巾を被っているが、その顔は人とも烏とのつかぬ異様なものであった。

 

「こんにちは、天狗殿。このような形でお会いすることになるとは思いませんでしたよ。」

 

 昴がそう挨拶をすると、天狗は嘴の付いた口でただ一言「うむ」と頷き、へたりこんだ女性を見やった。

 

「聞いての通りです。尤も・・・貴方のことですから、最初からすべてご承知の上だったでしょうが。」

 

「そうだのう。」

 

 そしてそのまま地面に降り立ち、ますます女性を深く見つめる。あまりの突然のことに、女性は恐れおののきガタガタと震えていた。

 

「怖がることはない、女。お前の望みは聞かせてもらった。依存がなければ、お前の姿を烏へと変えてやろう。承知するなら笠を外し、面をあげてみせよ。」

 

 女性はなおも指先一つ動かせない状況ではあったが、昴にそっと促されようやく自身の笠をおろした。初めて露わになる女性の顔・・・踊り子であるというのも頷ける。美しい黒髪、切れ長で丸みを帯びた瞳に、紅が艶やかな唇。それが驚きの表情の中に、わずかに好奇の様相を見せている。

 

「良いな。二度と人の姿に戻ることはないぞ。」

 

「はい・・・はい!結構でございます。」

 

 あの方に会える・・・あの方に会えるなら・・・!女性の返事には一片の迷いもなかった。天狗はその強い意志のこもった声を聞くと、また小さく「うむ」と短く頷いて、その鋭い爪が生えて鳥の足にも似た細い指先を、そっと女性の額に当てた。

 

「・・・あ」

 

 その瞬間に女性の体にどのような衝撃が走ったのか、それは分からない。しかし一言だけ微かに声を発すると、女性の体は光を帯びて見る間に変化していった。美しい黒髪が全身にまとわりついていき、腕は手先を無くす代わりに幅広く羽毛をまとい、顔には細長く嘴がつきだした。体全体がどんどんと小さくなっていって、寸法が女性にぴったり合っていたはずの着物は体に不釣り合いなほど大きくなっていく。それはほんの30秒足らずの短い時間・・・けれど昴の目の前からは女性の姿がなくなっていた。

 

 

 

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