時代を超えて尚、現代と同じくするその空はやはり黒南風に黒く淀んでいた。日の光を大きく遮って、周りはまるで夕方の暗がり。双姫神社自体がすでに異空間のように大きな木々に囲まれてはいたが、それを遙かに凌ぐほどの数の樹木の中に昴はいた。足下は古来より脈々と続く何万という人の足が作りだした山道で、身に纏うのは水干であった。
(高尾か・・・)
昴はあたりを見渡して小さくため息をついた。やれやれ、実際にお参りに行く前にこのような形で来てしまった。これでは天狗殿も驚くだろうか。
「もうし・・・」
そこへ消え入るような微かな女性の声が昴を呼び止めた。目線の先に立っていたのは、壺装束の一人の女性。頭からすっぽりと被った赤い着物と、つばの大きな笠が女性の顔を完全に隠す。昴に見受けられるのは、その色白な口元だけであった。
「・・・どうかしましたか?」
昴は一呼吸入れてから尋ねる。
「この道は・・・高尾の頂上に続くもので間違いありませんでしょうか?」
「ええ、そうですよ。」
女性の声は震えている。今にも泣き出しそうな、今にも倒れてしまいそうなほど弱々しい声。昴はそれに気遣ってできるだけ柔和に答えた。
「今時分、どちらへ行かれるのです?この空模様ではもうじき酷い雨になりますよ。」
「ただ高尾へ・・・高尾で会わねばならぬのです。」
「どなたに?」
「・・・」
女性はそれきり口をつぐんでしまった。黒南風はまた一段と強く吹いて、木々が大きく鳴り響く。女性は着物の裾をそっと押さえ、昴は落ちそうになった烏帽子を支える。
「何にせよ、このままでは道々危険でしょう。私もこの先へ行きますから、差し支えなければ貴女にお供仕りましょう。」
「し・・・しかし・・・」
「大丈夫ですよ、私にも強いお供がいますから。」
そういって茂みに控えていた佐保と竜田を招き寄せた。しかしその顔がのぞいた瞬間、女性は「ひっ」と小さく悲鳴を上げて数歩後退してしまった。
「あ、これは・・・犬がお嫌いでしたか?」
「い、いえ・・・あ、しかし・・・」
女性は曖昧な言葉でうろたえて、肩をぶるぶると震わせる。それを見て昴は招き寄せたその右手で、すぐさま二人に茂みに戻るよう指示した。
「これは大変失礼しました。では犬なしで参りましょう。さ、どうぞ。この辺りの道はよく知っていますから。」
昴が促すと、女性は未だおどおどとしながらも少しずつ歩を進めて昴と並んだ。未だその顔を拝むには至らない。しかし僅かに紅をさしているところを見ると、それなりの身分がある家柄なのだろう。おぼつかない足取りで、昴の横を不安そうに歩く。その傍らの茂みがガサガサと常に音を立てるのは、風が引き起こすことでもあったが、隠れたままの佐保と竜田がずっと付いてきていたためであった。
「良ければ身の上話でもしませんか?」
ややあって昴は沈黙を破って女性に尋ねた。
「身の上話・・・?」
「ええ、話せば何か変わるものもありましょう。私にも貴女にも。道々のご縁にそれを交わすのもまた、趣があるかと。」
昴がそう打診すると、女性も「そうですね」と小さく頷く。未だ小さな声・・・心の内を奥にしまいこんだまま、口はかたく結ばれている。
「さて、では言い出した私から話をしましょうか。」
そして柔和な声で言葉を続ける。
「私は今、とある神社に住み暮らしています。宮司ではありませんが、幸いなことに多くの者たちが私を慕ってくれています。神社には一つ大きな蔵があり、私の仕事はそれを管理することです。日々持ち込まれるものがあるので、日がなその整理に追われることもあります。」
「蔵人・・・なのですか、お父上の頃から?」
「いいえ、私は神社に行き着く前には、そこからとても遠い場所におりました。父母の存在はその時から存じ上げません。ただ私はその場所から追いやられたのです。その理由は・・・今は分からない、ということにしておきましょうか。いつの世も追放というものには、言われなき所以があるもの。天神の気持ちが、私には少し分かるように思えるのです。」
「・・・そうでしたか。」
女性は昴の話に相変わらず小さく呟く。わずかについたため息は、優しい同情を伴って聞こえてくる。
「高尾はいいところです。年に一、二度訪れるようにしています。霊山が私を元のところへ近づけてくれるようで、落ち着くのかもしれません。貴女もそうお思いになって来たのではないですか?」
「私は・・・」
そしてまたため息を付く。今度のそれは悲哀をにじませて響いた。