「もしもし?」

 

 ややあって光が収まってから、昴は道ばたに無造作に丸まっている衣服の塊に声をかけた。するとおもむろに衣服がガサガサと動き、着物をかき分けて烏が一羽顔を出した。その嘴の先が幾分赤くみえるのは、さしていた紅の残りだろう。女性は一羽の烏になった。

 

「これで飛んでいけますね。」

 

 昴が微笑を浮かべてそう囁くと、烏は「クア」と答えるように一言鳴いた。

 

「さて、確か三河の方だとおっしゃいましたね。」

 

 昴は懐からぬばたまの羽をもう一度取り出して、今度はそれをまるで紙飛行機のように空に放った。羽は刹那の閃光の後、三本足のやたがらすを昴の元に導いた。

 

「ぬばたま、彼女を三河まで送っていってくれないか?」

 

「ほ、ほーい。承知したぞい。」

 

 自らの羽によって召還されたぬばたまは、そのまま空に円を描いて待機している。昴は未だ衣類の上にうずくまっている、かつては一人の女性だった烏を両手で持ち上げた。

 

「飛べそうですか?あれは私の使い魔のやたがらすです。貴女を三河の地まで先導していきますから、迷わずについていってください。・・・そら!」

 

 昴は両手を空に突き上げるようにして、烏を優しく上空へと放った。空に不慣れな烏は最初こそふらついて頼りなかったが、すぐにバランスを覚えると待機していたやたがらすについて西の空へと飛んでいった。黒南風の曇天に、黒い点がどんどんと遠ざかっていく。

 

「天つ水 仰ぎて見れば 黒南風の 雲居に馳せる 露に濡れる背」

 

 昴は空を見上げたまま、小さく鎮魂の和歌を呟いた。さあ、飛んでいっておあげなさい・・・愛しい男の元へ。せめて最期ぐらいは共にできるよう・・・。昴は二つの黒い点が見えなくなるまで、しばらくそのまま空を見つめていた。

 

 

 

 

 

「さてもさても、年に一、二度は来るようにしてる、とな?」

 

「え?」

 

 不意に天狗に釘を刺され、昴は空から目線をおろした。

 

「まだ今年は一度もこの山に来ておらんようだがの。」

 

 天狗は皮肉混じりに昴を見やる。

 

「あれ?そうでしたっけ?それでは図らずもこれが今年1回目になりましたね。」

 

「いいや、良いとこ半分といったところだの。」

 

「これは手厳しい。」

 

 昴をそんな天狗の皮肉にクスクスと笑って切り返す。嘴の天狗は昴ほどうまく笑うことはできなかったが、それでも短く「フン」と慣らした鼻がどこか楽しそうだった。

 

「佐保、竜田。」

 

 昴がそう呼びかけると、草むらからガサガサと狛犬が姿を現した。

 

「さっきはないがしろにしてすまなかったね。付いてきてくれてありがとう。」

 

 すると二人の狛犬は相変わらず仏頂面のその頭を、愛しそうに昴の体にすりつけた。昴は少し爪を立てて、巻き毛に埋もれたその耳の後ろを掻いてやる。狛犬とはいえ、その嬉しそうな仕草は、他の犬と何ら変わらない。ふかふかの大きく丸い尾が、左右に揺れ動いている。

 

「紅葉の頃には、きちんとそちらに参りますから。その時には、荷の重いお土産は不要ですよ。」

 

「お前に荷の重いことがあるのかね?」

 

 昴は天狗の言葉に意味深に微笑んでみせた。切れ長の瞳を流すようにする表情は不敵そのもの。まだ誰も知り得ない奥の深さを垣間見せる。

 

「では天狗殿、それまでお達者で。」

 

「うむ、お前もな。」

 

 そう言葉を交わすと曇天の古い高尾の山道は、霞がかかってきて朧気になった。霞が完全に覆うその直前に、天狗が大きな黒い翼を広げて飛び立ったのが見えたが、その背中が完全に遠ざかる前に霞の中にフッと消えて見えなくなった。代わりに見慣れた境内が、徐々に姿を強くしていく。わずかに降り始めた雨粒が数滴、昴の肩でポツポツと音を鳴らした。

 

 

 

 「さ、もう戻っていいよ、二人とも。」

 

 昴が両脇に控える白毛と赤毛のそれぞれの頭をポンポンと撫でると、狛犬たちは満足そうにのどの奥を低く震わせて、疾風と共に元の台座の上に戻っていった。鎮座して石化したその体にも、雨粒が点々と模様をつける。相変わらず吹き続ける黒南風に、雨雲は空を流れていった。

 

「それ、濡れてしまうぞ。」

 

 不意にひこばえが境内の真ん中を指し示す。そこにはぬばたまが天狗から渡されたあの絵の巻物が唐突に置かれていた。

 

「おっと、濡らすわけにはいかないね。」

 

 昴はひょいと拾い上げて、その表面の水滴を平手で撫でて取り去る。

 

「思いがけず山を登ることになったのう。」

 

「・・・そうだね。」

 

「あの女、男の元に行けたかの?」

 

「大丈夫さ、ぬばたまが送っていったからね。それに・・・」

 

昴はそこまで言いかけて、あの不気味だった巻物をもう一度開いた。戦に敗れ倒れた武将のその傍らに、いつの間にか烏が一羽描き足されていた。少し嘴の先の赤い、小柄で慈愛に満ちた烏。武将の手は、わずかに烏の体に触れていた。

 

「ちゃんと間に合ったようだから。」

 

 梅雨の頃、雨を運んでくる湿っぽい南風も、もういくばくか季節を過ぎれば晴れ間を呼ぶ爽やかなものへと変わっていく。輪廻の輪にのって、二人で現世に戻っていらっしゃい。今度は白南風にのって。

 

 

 

  3へ≪   

 

 

≫「双姫連歌」TOPへ