「結論から言えば…子供を殺したのはおそらく母親でしょう。」
昴の一言にひこばえは“ふむ”と頷く。二人はほぼ同じ考え、あのあばら家の同じ場面に遭遇しては迷うはずもなかったのだ。
「結婚していた夫の家は相当な良家だった。けれど何らかの理由で離縁せざるを得なくなった。母親は多分…正妻ではなく愛妾だったのだと思う。けれど跡取りとなる唯一の男の子を産んでいた。当時の当主だった舅と姑は、“出ていくなら子供は置いていけ”とでも言ったのでしょう。しかし母親にそれはどうしても出来ず、深夜に子供を連れて人知れず家を出たんです。」
「そして行き着いたのがあの家か。」
ひこばえが続けた言葉に、昴は静かに頷く。
「子供もろとも姿を消したことで、当主夫妻は“母親を探し出して子供だけ連れ返せ”と言ったはずだ。夫は体が弱かったか、子供の出来にくい体質で、それ以上に男子が生まれることが見込まれなかったんでしょうね。しかし夫も曲がりなりにも愛した女(ひと)だ。何とか探し当てたが、同情心から子供を引き離せず一度は立ち去って、後日話をつけると言った。夫が口にしたその“話”というのはね、本当は自分の親である当主夫妻に子供を諦めてくれと懇願することだったんだ。…でも母親はそうとは思わなかった。」
昴は最後の言葉をトーンを落として呟くように言った。盲目愛が相手を見えなくしていた…よくよく見れば夫が優しい目をしていたものを、母親にはそれが映らなかったのだ。
「そ…それで、ひこちゃんが言った“子供を取られるくらいなら”って……?」
「うん…思い詰めた揚句、手に掛けてしまったんだ。ふと我に返って冷たくなった我が子の姿を信じたくないばかりに発狂して、バラバラにして井戸に捨てた。そして“我が子は夫に殺された”…そう思い込むために血水を飲んだんですよ。」
最後まで話を聞き終えると、友泰は青ざめた顔で小さく“ひぇ…”と呟いた。
「…まず間違えなかろうのぅ。だがどうするのじゃ?あれは既に鬼に堕ちた女…先刻も言うたが、鬼を断ち切るものなどここにはないぞ。」
「うん、そこで考えがあるんだ。ちょっと待ってて。」
昴は二人を安心させるような微笑みを浮かべると、立ち上がって一度拝殿を出て行った。ひこばえと二人きりの気まずい雰囲気の中で、友泰は「どこに行ったのかな…昴くん」とぎこちなく話しかけたが、ひこばえはただ一言「さぁのう」と返すだけであった。実のところ、ひこばえも昴の考えを読み切れず、何の手だてがあったものかと思考を巡らせていたのだった。よもや双姫を呼びに行ったか…いや、いくら狛犬に怯えたとて鬼ははらえぬ。昴が直接手を下すより他はない。宿る場所を焼く気も更々ないと見えるが、一体何をするつもりなのか。
「お待たせ。」
ややあって戻って来た昴の手には、ボロボロの刀が一差しあった。
「え…刀?でもひこちゃんは“鬼を斬るものはない”って…」
「昴、よもやそれは…」
「うん、朽ちても抜けぬ、思いの刀。」
永久の茅花野で、数百年もの間心を縛り付けていたあの古い刀。
「あの女(ひと)を鬼にしてしまったのは、我が子と夫への歪んだ“思い”だ。鬼は斬ることも抑えることもできないけど、その“思い”なら押し止めることができる…この刀ならね。」
「そうか…それであの人は救われるってわけだ!」
しかし喜々とした友泰の言葉に、昴は首を横に振った。
「…残念ですが、それは無理です。よしんば思いを断ち切っても、あの女(ひと)の所業は既に鬼のするところです。一度鬼に堕ちた者を、今の僕では元には戻せません。とにかく鬼質の根源を断ち切って、自然と戻りゆくのを待つしかないでしょう。」
「あの女(ひと)は…戻れるのかい?」
「…どうでしょうね。それは本人次第です。」
そういうと昴は刀を持ち直して、カチャリと僅かな音を立てた。
「佐保、竜田。」
昴が境内の方向に名を呼ぶと、“待ってました”と言わんばかりの速さで生きた狛犬が姿を現した。そして普通の犬が主人にするのと全く同じに、尾を目一杯振って昴に懐くのだった。
「いい子だ、二人とも。昨日はありがとう。さ、今日も力を貸してくれるね?」
返答はもちろん“YES”。雄々しい瞳を輝かせて昴を見つめる。
「三人で参るか?」
「いや、佐保と僕だ。竜田、君は万が一の時のためにこちらに残って。もし鬼がこちらに出てしまったら、迷わず噛み付いていい。逆に中で必要と察したら必ず呼ぶから。」
昴は少し不満そうな竜田に言って聞かせると、優しくその頭を撫でた。竜田はそれに高い声で応えて、連れ合いの佐保と鼻を付き合わせる。昨日の事を知っている双姫、まるで“頼んだぞ”“任せておけ”と二人だけの会話をしているかのようだった。
「行ってきます、友泰さん。外へ出て待っていてください。」
「うん、分かった。必ずだよ、昴くん。」
昴に無事に帰ることを約束させると、友泰は後ろ髪を引かれながらも境内へ出て行った。拝殿には昴と人ならざる者たちだけが佇む。
「いいよ、ひこばえ。」
「うむ…じゃが事が上手く済まなくとも、わしが危ういと判断すればすぐに連れ帰すぞ。そしてその折には物ともに焼きはらう…良かろうのう?」
「分かった。」
「約束じゃぞ。」
ひこばえが小指を立てて右手を差し出すと、昴は指切りを交わした。座敷童子との指切りは、単なる形式的な口約束ではない。破れば針千本以上の代償を飲まねばならない、非常に拘束力の強いもの。そうでなければひこばえが昴を行かせはしなかったのだ。
「では参るぞ…』
昴は今一度強く刀を持ち直して瞳を閉じ、ふーっと息を吐き出した。やや体の浮くような感覚に、周りが変わっていくのを感じる。そしてあの突き刺さるような空気が、再び姿を現したのだった。