早くも低く唸り声を上げる佐保に、昴は手を翳して今暫くそれを留めるようにと示す。何とも言えない生温い空気、昴は前回と全く同じ出で立ちであばら家に立っていた。

「…そこにいるのでしょう?」

暫くある一点だけを見つめていた昴だったが、ややあってそう声を掛けた。

「佐保はいきなり貴女に飛び掛かったりしませんよ。どうぞ出て来て下さい。」

すると一呼吸おいて、壁の影からあの陰欝な顔が覗いた。生気のなにもかもを吸われそうなほど、怪しく狂う淀んだ瞳。佐保は唸りを止めても、牙を剥き出しにすることをやめなかった。

「…何をしに来やった…今更…」

「…貴女を救いに。」

「私を救う?救うじゃと?!笑止…なれば惣太を返せ…!私の子じゃ…!」

鬼女は途端に激情し、壁の影から飛び出した。やはり気付かないか…自らのその汚れた手に。もはや優しく且つそれとなく意味を含ませて諭すのには手遅れだ。昴は奥歯をぐっと噛み締めた。出来ることなら、こんな手は使いたくなかったけれど…

「…本当にお子さんを返して欲しいですか?」

「愚問を申せ…!」

鬼女の言葉には“返して当たり前だ”というほかに、“死んだ者が還るものか”と嘲る意味も含まれていた。無論無理矢理なやり方だ。しかしあの子の魂も既に行き所を無くしている。二人目の鬼になるのを、このまま見過ごすわけにはいかない。

「よろしい…ではお返ししましょう。」

昴は刀を持っていない左手を、すっと静かに持ち上げた。すると途端にボタボタボタッ…と、上方から何か塊が落ちてくる音がした。それは井戸に捨てた筈だった…もう二度と見るまいと決めていた。悍ましい記憶を曲解することで永らえていた…それなのに…

 

 

…母ちゃん……

 

 

「ひっ…ひぃぃぃぃぃっ…!!!」

右の耳元でかわいらしくも生気のない声がして、鬼女は狂ったように頭を抱えて苦しみ出した。

「やめろ…やめろ…やめてくれぇぇぇ…っ!!」

激しい叫び声が辺りを大きく響かせる。そして鬼女は蘇りつつある記憶を振りほどこうと体を揺さ振り、昴の方へと走り込んできた。以前よりもずっと闇雲に、狛犬の存在すら超越して、遮二無二に襲い掛かってくる。しかし昴は微動だにしない。代わりに傍らの佐保が鬼女を体当たりで退けた。鬼女は「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げて倒れ込む。

「自分の所業を全て認めなさい。そして鬼の心を捨てるのです。そうでなければ、誰がその子を弔うんです?」

昴は鬼女を見下ろして、その右肩に憑いた朽ちた子供を示した。まだ3、4歳ほどの小さな子供、生きていたならなんと可愛かっただろうに。

「い…嫌じゃ……、私じゃ…私じゃない……!」

鬼女は俯せに体を丸めて、背負った自分の子供を見ようとはせず、ひたすら頭を抱え込んでいた。昴はそれを見て警戒する佐保を下げると、抜き身の刀を持ち直した。それは見間違うほどに立派な刀…腕利きの刀鍛冶に研がれたほどに美しい。

「…仕方がありません。ではその鬼の心、もう暫くここにいてもらいます。」

昴は鬼女の方へ歩みいでて、尚も丸めたままの背中に切っ先を合わせた。そして躊躇う事なく刀を突き立てる。

「ぎゃっ…あああぁぁぁ…!!」

刀は鬼女の体を貫いて地面まで到達する。断末魔の悲鳴は耳をつんざくほどで、同時に昴の心をも裂くほどであった。貫く刀はそこに強い想いが有る限り、朽ちても抜けることはない。いずれ鬼女がただの哀しい女になれたなら、自然と抜けて魂も報われよう。

 

「なりぬれど 吾子(あこ)は愛しき 鬼女  人知るらめや 濡れた袖だに」

 

昴は鎮魂歌を小さく呟いた。動かなくなった鬼女の目には、うっすらと涙が滲んだままだった。

 

 

 

 

 「ただいま、ひこばえ。」

佐保とともにいつもの拝殿に戻って来て、室内に控えていたひこばえに声をかけた。

「上手くやったようじゃのう。」

「……うん。」

「あれ以外に方法はなかったのじゃ。ようやった。」

「…ありがとう、ひこばえ。」

出来得るなら救いたかった…鬼の心から。結局最期まで苦しい思いをさせることになってしまった。そう気落ちする昴を庇うように、ひこばえは強く功績を請け負う。双姫も体を擦り寄せては、そんな昴を元気付けようとするのだった。

「昴くん…うわっ…!!」

そこへ友泰が駆け込んでくる。彼は慌てるあまり、拝殿の入口に足を引っ掛けて倒れ込みそうになりながら入って来た。

「あまり慌ててそこらを壊さないでくださいよ、友泰さん。」

「そうじゃ!わしの家を壊そうものならただではおかぬぞ!」

「あは…やぁ…ごめん。」

友泰は罰の悪そうに苦笑いして、後頭部に手を宛てる。そして刀を持っていたはずの昴が手ぶらでいることに気がついた。

「あれ?昴くん、あの刀は…?」

「全く…真のお人よしとはお主のことじゃ、昴。あれを鬼女にくれてやるとはのう。」

「え…?あ、あげちゃったの?」

ひこばえの言葉を繰り返すように、友泰は昴を見遣った。あの刀の詳しい価値など誰も知るところではなかったが、鬼に差し出すにはあまりに惜しく思えてしまう。大分年代ものだったろうに。

「そうですね…久しぶりに大盤振る舞いをしました。」

そう言って少し意地悪に、当てつけがましく友泰を微笑みかける。友泰は昴がそんな風にいう時には、いつもその反対の心持ちでいることを知っていたため、からかわれているのを承知して「やめてよ、昴くん」と笑うのだった。

 

 「それより…これ、どうします?せっかく買ったんですから持って帰りますか?」

昴は拝殿に落ちていた朱塗りのかんざしを拾って、友泰に差し出した。未だ鬼を宿す骨董の品。尤も二度と鬼女が暴走することはないけれども。

「い、いや…いいよ。それは昴くんが持っていて。」

「分かりました。それじゃあこれで刀のことはチャラですね。」

またニッコリと微笑んで、昴はひこばえにかんざしを渡す。友泰が自分のせいで損をしたという負い目を感じないようにと、常に何手先をも読んで話をする昴に、自分の方が年上とはいえ友泰はまったく歯が立たないのだった。

「宝蔵にしまうぞえ。」

「あ、待って。ひこちゃん。」

立ち去ろうとするひこばえを引き止めて、友泰はポケットから綺麗めのハンカチを取り出した。

「あの人もきっと…随分苦しんだだろうから…」

そう言って、かんざしをまるで寝かし付けるように優しくハンカチで包んだ。

 

人知るらめや、濡れた袖だに…

 

鬼と化した貴女に、死んだ子を嘆く心もないと思われてしまっていたことでしょう。袖を涙で濡らして悲しんだことを、誰も知ることもなく。けれどここには、貴女の真のところを知る者たちがいます。今はまだ悲しみの淵にあっても、いずれ救われることのありますよう…

「そうやってまた同じように引き寄せてしまうんですから、本当にキリがないですね。」

「はは……面目ない…」

「でも…」

昴はしゃがんで佐保と竜田をよく撫でながら、言葉をつなげた。

「友泰さんのそういうところが、僕はいいと思いますよ。」

昴の言葉に照れ臭くなって赤面する友泰。しかし直後に「だからといって調子に乗るでないぞ」と、ひこばえに釘を刺されることになったのだが。

「さ、外はいい天気だよ。佐保、竜田、ご褒美に駆け回っておいで。」

そしていつもの穏やかさを取り戻す双姫神社。走り出す狛犬の傍らに、小さな子供の姿が見えた気がした。

 

 

 

 4へ≪  

 

≫「双姫連歌」TOPへ