嫌な空気だ…

 

 そんな直感で昴は目を開けた。暗くじめっぽい建物の中、あちこちから外の光が漏れている所を見ると、廃屋同然のあばら家なのだろう。空気の生暖かささえ、全身に鳥肌を立たせる。何とも不気味で嫌な雰囲気。

 

 昴は座った体勢のまま、自分の姿を見遣った。薄汚れた袴姿は江戸の頃を思わせる。尚且つここは田舎の方だろう、僅かに家畜の匂いも嗅ぎ取れる。

 

「そこにおるのは誰じゃ。」

 

 低い女性の声が、姿の見えない内から響いてくる。そして古びた壁の影から、げっそりとやつれた顔が覗いたかと思うと、はっとその顔色を変えて鬼の形相へとなっていった。突き刺さるような空気はさしずめ殺気で、この空間を覆っている重い空気の根源を思わせた。

 

「おのれぇ…三行半の末にまだ来やるか!」

 

「…?!違っ…」

 

「憎い…憎らしい!惣太の仇…!」

 

 すると女は凄まじいほどの速さで昴の元へ走り寄り、その首元に手を延ばしてきた。昴は咄嗟に自分の腕を宛てがったが、それをも押しのけて女は昴の首に手をかけた。まるで鳥の足のように痩せ細った腕のどこにそんな力があるのか、およそ女とは…いや、人とは思えぬほど強い力で昴の首を圧迫する。

 

「…ぐっ…!!」

 

「よくも…私に惣太の血水を飲ませたな…!この鬼め!私が同じように八つ裂きにして水辺へ放ってやる…!!」

 

 そう吐き捨てるように言い切ると、女はますます力を込めた。もはや昴の気管は潰れんほどで、苦しさの呻きさえ上げられなかった。

 

『昴…!』

 

 ひこばえの声もより遠くに感じる…このままでは殺される…!

 

「…佐……保…、た…竜田……」

 

 昴は息も絶え絶えに、辛うじて二人の狛犬の名を呼んだ。頼む…届いてくれ……!

 

 

 

 

 ちょうどその頃境内では、相変わらず心配な面持ちで友泰が立っていた。彼には閉ざされた障子の向こうが今どのような状況なのかは、まったく分からない。昴とひこばえが同時にしかめた顔が気にかかる。大変なことになっていないといいが…

 

「ん…?」

 

 不意に友泰は犬の唸り声を聞いたと感じてその方向、神社の入口を振り返った。けれど犬などいない…ということは…

 

「…ぅわっ……!」

 

 突然に疾風が友泰の両脇を駆け抜け、一直線に拝殿へと吹いていった。あまりの速さに木の葉が遅れて揺れる。それにつられて再び拝殿に向き直った友泰の背後で、空の台座に葉が一枚ふわりと乗ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 …ガウゥゥッ…!!

 

 

 一閃、あばら家に凄まじい獣の声が響く。疾風の速さのまま拝殿の中に走り込んで来た佐保と竜田は、昴に覆いかぶさる女に体当たりをした。

 

「ぎゃっ…!」

 

 女は突き飛ばされて昴の首を放し、廃屋の隅へ倒れ込む。

 

「ゲホッ…ゲホッ…ッ…!」

 

 昴は咳込みながら起き上がり、女を見遣った。彼女は昴の前方に立って唸り声を響かせる狛犬達に、ひどく怯えていた。

 

『昴…!今のうちに一旦引くぞ!』

 

「あ…あぁ…」

 

 そしてまた薄れていく廃屋。その微かな残像に、女が金切り声を上げて逃げていくのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 「昴くん…?!…わっ…ワンコたち…!」

 

 タイミングを見計らって拝殿へ駆け込んで来た友泰は、咳込む昴に寄り添っている佐保と竜田に一瞬退いた。しかしすぐに昴の苦しそうな様子に気が付き、そのまま拝殿へ上がり込む。

 

「ど…どうかしたのかい、昴くん?」

 

「おのれ友泰!ひどく厄介なものを持ち込みおって!おかげで昴が殺されかけたぞ!」

 

「えぇ…!そんな…だ、大丈夫なのかい?」

 

 ひどく立腹のひこばえの叱責に、未だ立ち上がれずに苦しそうな昴の肩に手を置いた。その首にしっかりと跡付けされた赤い痣が見受けられる。

 

「良いか、あの中におったのはキジョじゃ!」

 

「き…きじょ?」

 

「鬼女(おにおんな)じゃ!双姫がおらなんだら、昴は戻れぬところじゃった!」

 

「そ…そんな…っ」

 

 友泰の顔色は見る間に青ざめていった。かたや昴は未だ苦しそうに咳込むばかりで、喋ることさえままならないのだ。佐保と竜田はそんな昴を心配し、“クゥン…”と高く鼻を鳴らして体を擦り寄せている。

 

 

 「…ゴホッ……大丈夫ですよ…」

 

 ややあって喘ぐように昴は呟いた。

 

「佐保と竜田のおかげで助かりました。…ありがとう、二人とも。…ケホ…、それに接触したことで朧げながらも事情が読めました。」

 

 昴はそこまで一気に言うと、また大きく咳込んで、そして長く息を吐き出した。

 

「あ…昴くん、これ。」

 

 友泰は買ったばかりのペットボトルを差し出すと、それを飲むように促した。それでようやく昴の呼吸も落ち着いていく。

 

「昴、あれはなんじゃった?」

 

 様子を見てひこばえが尋ねる。良からぬものとは見受けても、ひこばえにはそれ以上のことは掴めなかったのだ。

 

「…江戸時代、夫と離縁した女性だった。…友泰さん、だいぶ生々しい話になりますよ。」

 

「か、構わないよ。俺に責任があることだし…」

 

 友泰は体を僅かにブルルと震わせながらも頷いた。昴はそれを暫く見遣ってから、咳ばらいで声を整えて話し出す。

 

 

 

 「“三行半の末にまだ来るか”、そう言われた。僕はあの中では離縁した夫役だったということだ。何が原因で別れたのかは分からない。…が、何か尋常ならざることがあったんだろう。離縁したにも関わらず、夫が妻の元を訪れていたようだ。」

 

「ふむ…確かにおかしいの。」

 

「それがある日、妻の知らぬ内に夫が来て、幼い子供…つまり息子をだけど、その手で殺してしまった。そしてバラバラに切り裂いて、妻の使っている井戸に投げ捨てた。妻はそんなこととは知らず、その水を…」

 

「…いっ…!?の、飲んじゃったって言うのかい…?」

 

「うん…そう思い込んでいる。」

 

「え?“思い込んでいる”?」

 

「どういうことじゃ?」

 

 昴の言葉にすかさずひこばえが問う。昴はまた少し咳込んでから水を飲むと、ふーっと一息ついて考え込んだ。一瞬の内に感じた違和感…その正体を探っている。

 

「たぶんだけど…子供を死なせたのは妻自身なんじゃないのかな?それが故意にやったことなのか、不慮の事故だったのかは分からないけど…」

 

そこまで言うと、昴の両側に座っている佐保と竜田も頷くように小さく鳴いた。

 

「でも…バ、バラバラにして井戸に捨てたのは確かなんだろう?」

 

「うん…だけど我が子を亡くした母親の気持ちまでは分かりませんよ。不慮だったにしても発狂したのかもしれないですし。」

 

「いずれにしてもその女、もはや人間にはあるまいのぅ。まがまがしい鬼の気配じゃ。」

 

 ひこばえは忌むような口調で、膝を抱えてしゃがんではかんざしを見つめた。一目見た折りには見事に映った朱塗りも、事実を知っては血のような毒々しさすら感じられる。佐保と竜田に怯えて逃げたところで、この閉鎖された世界からは出ることもできまい。いつまでも忌まわしのあばら家で、血を歎く憐れな鬼女。

 

「とにかくすぐに何とかしましょう。あまり長引かせては余計に悪い。」

 

「けど昴くん、さっきの後では止めた方が…」

 

 友泰の言葉に“自分達も同じ考えだ”と言わんばかりに、佐保は昴の腕を甘噛みし、竜田は体を強く擦り寄せた。

 

「大丈夫ですよ。ひこばえ……っ…」

 

 しかし昴が再びかんざしを手にとると、心臓がドクンッと大きく鼓動を打った。激しい衝撃を体の内部からあてられたような悍ましい感覚、さすがの昴にも堪えるひどい痛み。昴は言葉の途中でそのまま倒れて気を失ってしまった。

 

「昴…!」

 

「昴くん!」

 

 名を呼ぶ二人の声ももはや聞こえない。蒼白した顔に、首の赤い痣がますます痛々しげに映った。

 

 

 

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