少し時を遡って、まだ月が雲の間に間に顔を出していた頃、朱鷺子は布団に入って眠れぬままであった。外の物音は静かすぎずうるさすぎず、とても心地よく木の葉が揺れる音がしているというのに、なぜだか寝付くことができなかった。理由もなく胸騒ぎがしていた。周りに音が漏れているのではと思うほど、心臓は強く脈動し、手の先は微かな痺れがずっと続いており、体がひどく冷たく感じられた。吸い込む息はまるで薄荷を口に含んでいるかのよう。逆に吐き出すときには震えていた。
(・・・何故かしら)
急激に泣き出したい気持ちに駆られている。朱鷺子は見え隠れする月の光に、明暗を繰り返す天井の一点を見つめていた。そうすることで、みじむ涙を瞳の中に納めていた。朱鷺子はこの夜、もう何度眠ろうと試みただろうか。月が隠れる度に堅く瞼を閉じたが、再び月が現れるのと同時にやはり眠れず目を開けてしまう。時刻はもう丑三つ時近くになるのだろう。草木も眠るというのに、いつまでも目が冴えて仕方がない。
朱鷺子は諦めて体を起こした。そして胸に手を当てる。ドッドッドという強い鼓動は一向に収まる気配がない。泣きたい気持ちも、やはり変わらない。
(・・・外の風に当たりたいわ)
朱鷺子はため息混じりにそう思いついて、そっと布団から立ち上がった。襖一枚隔てた隣の部屋からは、祖母と母の寝息が微かに聞こえている。部屋の半分を商品の物置にしているために三畳ほどしかない部屋は、朱鷺子にとってちょうどよい寝屋であった。そっと音を立てないように立ち上がり、障子も自分一人が体を横にしてやっと出られる程度にしかあけずに寝屋を後にする。そして階段を下り、そう長くない縁側へ行き、雨戸も同じくほんの少しだけ開けた。真夜中に外に出るなど、母が知ったらきつく咎められるのだろうが、戸板の塀に囲まれた狭い庭くらいなら、そう気にすることもあるまい。
朱鷺子は草履をつっかけて一歩踏みだし、雨戸の隙間の縁側に腰掛けた。程良く涼しい風が、緩急をつけて絶えず吹き続けていた。そのたびに隣家の木々がサワサワと音を立てる。気の早い虫たちが草の影で鳴いており、梅雨の時期には珍しく月の眩しい夜だった。空には黒いちぎれ雲が風に乗ってゆっくりと流れていく。それが時に月を隠し、闇と静寂を呼ぶのだ。朱鷺子の胸中とは裏腹に、あまりにも穏やかな夜。皮肉なほど心地よく、風が朱鷺子の頬を撫でていく。
(あの人と同じね)
朱鷺子は自嘲的に微笑んだ。皮肉なほど心地よい、声も振る舞いも、その雰囲気も。ずっと傍らにいたいと思った。今にして思えばいっそのこと、不快な思いの一つでもあれば良かったのに。そうしたならば吹っ切れたのに、と思わずにはいられなかった。
何故自分は隼人に惹かれたのだろう。
朱鷺子はふと自問自答をしてみた。
最初は、そう、最初は単純に一目惚れだった。危ないところを助けられ、またその強さに心を奪われた。無口で素っ気ない印象だったが、その中に凛とした強い決意を秘めていた。それが自分には無いものに思えて、憧れにも似た思いでもあったのだろう。自分はただ過去を忘れようとして、毎日を明るく過ごすことに夢中であったから、隼人のように強い決意を持ってみたいとも思ったのだ。
そんな折、隼人の背負う影を知った。自らも剣客であったが故に、仇討ちを背負い込んだ幕末の影。隼人の強い決意のその裏に、幕末に繋がれて引きずったままの鎖があるのだと知った。あの人は本当のところでは、心優しく平穏を愛する人であるはずなのに、その鎖が隼人を明治の太平から遠ざけていた。だから思ったのだ。この仇討ちに終止符が打たれれば、隼人は鎖から解放されて、本来の生き方ができるのではないかと。自分にその手伝いができないかと。自分はただ一日でも早く、隼人を仇討ちから解放したいと、それだけだったのだ。だから辻兄鷹を探す手伝いをすると申し出たのだ。・・・それだけのはずだった。
それがまさかこのような因縁があるなんて。鎖を解くどころか、もつれにもつれて今まで以上に何重にもきつく巻き付けただけだった。
「隼人様・・・」
今どうしていらっしゃいますか?苦しんでいるのでしょうか?貴方を助けたいのに、何もできない私は、一体どうしたらよいのでしょう。
朱鷺子は涙をにじませて、胸元で両手を組んで俯いた。草木の揺れる音に紛れて忍び泣く。空の月はいつの間にか雲から逃れて、煌々と柔らかく照らしているというのに、それには気がつかないままだった。
・・・ザザッ
そこへ不穏な物音が戸板の向こうで響いた。足摺の音だろうか。ふらついているのか、その音はひどく不規則な感覚で響き、どんどんとこちらに近づいてくるようだった。
「・・・?」
朱鷺子はその音に顔を上げ、縁側に腰掛けたまま身構えた。こんな真夜中に外を出歩くなど、到底尋常のこととは思えない。もしもその足音の主が、不逞な輩であったとしたなら、こうして戸板を隔てただけの位置で外に出ているなど危険極まりない。かといって、今すぐに家の中に逃げ込んで雨戸を閉めるのでは、その音で人がいるのだと気がつかせてしまうだけ。ここはこの足音をやり過ごし、頃合いを見てそっと寝屋へ戻る。朱鷺子は泣き出した息を潜め、戸板の向こうに耳をそばだてた。いっそ強く風が吹いて一切の音を遮ってくれたなら、今すぐにでも踵を返して寝屋に戻れるものを、今になってぴたりと風がやんで、外は物音一つしない。それが余計に足摺の音を大きく感じさせる。足音は今、更にゆっくりと近づいてきて、やがて急に鳴り止んだ。
朱鷺子は不思議な心持ちであった。本来なら先ほどの胸騒ぎ以上に動悸が激しくなってもいいものを、まるで自分ではないかのように妙に落ち着き払っていた。物音のしない夜半は、あたかも時が止まっているかのよう。トクトクと柔らかい自らの鼓動だけが、時間の流れている証。
ややあって、たまらず朱鷺子は立ち上がった。怖い思いなど微塵もない。また命を危ぶむような思いでもない。先ほどまでの泣き出していた心も忘れて、まるで月光に導かれるように朱鷺子は戸板の囲いに向かっていった。急かされるように自然と足が動いていく・・・心は空っぽ。疑問に思うことすら野暮ったく思える。
ガタリと躊躇無く、朱鷺子は裏戸を開けた。それを待っていたかのように、風が一迅吹き抜ける。緩く結んだだけの髪が合わせて揺れる。囲いの外は内側と違って、常に時間が動き続けているように思えた。
ドサ・・・
不意に耳に聞きなれない音が入ってきた。木々が揺らいだのではなく、また遠く川の音でもない。朱鷺子はその音の方向を見遣った。
「・・・隼人様・・・!」
囲いの曲がり角で倒れている人を見て、月光でそれが彼だと分かった。大きく痛いほど心臓が高鳴り、全身に冷たい血液を巡らせる。朱鷺子はすぐに裏戸から出て、そんな隼人に走り寄った。
「隼人様・・・っ・・・」
月光に遠目では分からなかったが、近づくほどにその身を染めた血の赤さに、朱鷺子は一瞬たじろいだ。特に右腕のそれは尋常ではない。一瞬にして朱鷺子の中に恐怖がわき出てきて、足がすくむ。
「・・・と、朱鷺子・・・」
呻くように隼人が呟いた。その声が朱鷺子に正気を戻させる。
「ここにおります、隼人様!」
朱鷺子は多量の血が自らの着物も染めることもいとわずに、隼人の傍らにしゃがみ込み、彼を抱き起こした。隼人の体は、もはや血の付いていない部分を探すことの方が難しいほどであった。最もひどい右腕は、袂がぐっしょりと重みをもって濡れている。
「一体何が・・・何がありましたの?!」
朱鷺子は隼人の顔についた血や砂を払いながら尋ねた。
「仇討ちの・・・後始末を、つけていた・・・」
途切れ途切れ、喘ぎながら隼人は答える。
「仇討ちの・・・?」
「俺の仇討ちが・・・呼び寄せてしまったものに・・・だ。安心していい・・・」
辻兄鷹の家族にではない、と言いたげに、隼人は薄目を開けて朱鷺子を見た。
「隼人様も・・・知ったのですね、私の父が・・・」
朱鷺子はそれ以上言えずに、瞳に大粒の涙を貯めた。結局続きを言えないまま別れたお堂さんでのことが、ありありと思い出される。自分が仇の娘だと、とても怖くて言葉が続かなかった。蓮角が野暮ったくも現れたことで途切れてしまったあの会話。
「まさかこの傷・・・あの男と?」
ふと思い当たって矢継ぎ早に再び問う。隼人は薄目を今ひとたび閉じて、ふーっと長く息を吐いた。
「何故なんです?私は貴方にとって仇の娘、私を助ける道理などなかったはず・・・。それなのにこんな怪我を負ってまで・・・」
「・・・不思議なものだ」
「・・・え?」
隼人は今度は薄目で空を見る。
「腕を斬られ・・・もはや刀も握れなくなって・・・何もかもを失くしたはずだというのに・・・、何かを得た思いで・・・いっぱいだ・・・」
仇討ちを果たしたわけでもない、無傷で相手を斬り伏せたわけでもない。むしろ生きる術だった刀を失い、今や命の危機に瀕している。それなのに、隼人の胸中に喪失感など微塵もなかった。ただ何か分からぬ感情で心がいっぱいに満たされているだけであった。そしてその感情の先には朱鷺子がいた。
「・・・無事で良かった」
隼人はそう呟くと、弱々しくもとても柔和な微笑みを浮かべた。月光にとても柔らかく、朱鷺子が求めていたその表情。
「隼人様・・・!」
朱鷺子はポロポロと涙をこぼし、身を屈めて隼人を抱きしめた。
ある者は、夜半の鳥を見たら逃げろと言った。またある者は目障りだと言った。けれど夜半に寄り添うこの鳥は、こんなにも暖かい。
隼人はそれだけ心に浮かべると、ふっと意識を失った。朱鷺子が気がついて何度が呼びかけたが彼の耳には届かず、隼人は静かに呼吸を繰り返すだけであった。その表情に苦悶はなく、とても柔らかなものであった。朱鷺子はそれを見て安堵に微笑む。長く一人で飛び続けた隼は、月の明るい夜半にようやく羽を休めたのであった。
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