隼人が重たい瞼を開けると、見慣れない天井が見えた。借長屋の薄汚れたものとは違い、蜘蛛の巣もなければ厚い埃もない。隼人は果たして自分がどれだけの間眠りについていたのかも、ここがどこなのかすら全く見当がつかなかった。いや、それどころか自分が何を経てここに至ったのかすらも曖昧であった。ただしばらくの間、ぼんやりと天井を見つめる。その耳には障子越しに風の音が聞こえた。加えて心地よく薄暗い室内と、傍らに山と積まれた布地の匂い。こうして布団に横になっているだけで、いくらでも眠気に見舞われる。

 隼人も今一度瞳を閉じたが、それでもふーっと長く息を吐き出すと、体を起こそうとよじった。

「・・・うっ・・・」

 その途端に激しい痛みが右腕に走る。肩から指の先に至るまでビリビリと痺れ、また焼け付くように痛んだ。ぼんやりとしていた時には感じていなかった痛みが、気がついたと同時に蘇って隼人を苦しめた。そのあまりの痛みに、少しだけ持ち上げた頭を、再び枕に押し当てる。そして思うように動かない右腕の代わりに、首をできる限り動かして目線を送った。そこにあったのは、さらしをきつく巻かれた我が右腕。ビリビリとひどい痛覚が満遍なく襲っているというのに、その指先はとても動かせるような感覚にはなく、まったく別物の、まるで人形の手のように見えた。

 あの夜は、今から一体何日前の出来事なのだろう。隼人はもう一度瞳を閉じて考えてみた。その暗い瞼の内側を、記憶の断片が飛び交う。月明かり、刀と刀のぶつかり合う音、血の色、匂い・・・。思い出すほどに心臓が痛むほど不穏に高鳴る。

 

 

 不意にカタリと音がした。僅かな音であったのに、隼人はひどく驚いてその方向を見遣った。

「隼人様・・・」

 彼の目が開いていることに気がついて、朱鷺子はぱっと表情を明るくした。痛んでいた隼人の心臓は、それだけで穏やかに緩んでいく。

「朱鷺子どの・・・そうか、ここは君の家だったか」

「覚えていませんか?」

 朱鷺子はふふふと笑いながら部屋を横切った。そして外からの光を遮断している障子をゆっくりと開ける。部屋の中に、さっと梅雨の晴れ間の光が射し込む。

「・・・いや、少しは覚えている・・・」

 隼人は左腕を額にあてがって、久しぶりの日光のまぶしさを遮りながら呟いた。蓮角を斬り伏せた後、おぼろげながら辰と六助の声を聞いた気がする。それから次に思い出せるのは月下の微笑み。これまでの人生の中で、あれほど心が落ち着いたことはなかった。だから忘れられようはずもない。それが誰であったのかも含めて。

「俺が来たことで、大変な思いはしなかったか?」

 そう尋ねると、朱鷺子は微笑みを絶やさずに小首を傾げながらも、その中にわずかに動揺を見せた。隼人を見つけたあの夜は、本当のところでは終始大変な思いをした。隼人の血で朱鷺子もまた赤く染まってしまい、母や祖母は起こした途端に気絶しかけるところであったし、真夜中に市中見回りの役人を連れ立って小池を呼びにいっては応急の処置を頼んだ。小池は真夜中であったにも関わらず快く隼人の怪我を診てくれたが、それが一通り済むと母と小池と並んで朱鷺子に事情を請いた。朱鷺子があらかた話し終えて二人が、とりわけ母が承諾した頃には、夜はすっかり明けて東の空には太陽が昇っていたのだった。

「・・・いいえ」

 しかしそれを胸中に抱いてさえ、朱鷺子は口元に微笑みを浮かべたまま首を横に振った。そしてそれに気がつきながら、隼人もまた「そうか」と言っただけであった。晴れた空には鳥が楽しげに飛んでいる。部屋に射し込む光の中をその鳥たちの影が横切っていく。話し声のようなさえずりが、部屋の沈黙の間を埋めた。

 「隼人様、これを・・・」

 ややあってから、朱鷺子は一冊の手記を隼人に差し出した。布団の傍らに置かれたそれを横目に見て、隼人は左腕と朱鷺子の介助で体を起こす。そして手記手に取り、その表紙をまじまじと見た。「小七」の名が目に飛び込んでくる。

「これは・・・」

「父の手記です。父がここを離れて江戸へ行ってからの」

 朱鷺子は努めて淡々と答えた。

「何故これを俺に?」

「・・・それを私が持っているには、あまりにも不釣り合いですから。かといって、いつ母の目に触れるかも分からないこの家に隠し続けるのも、私にはできないんです」

「では母君はこのことを・・・」

「ええ、知りません。とても言えませんでした。尤も、市三郎さんはどことなく気がついたように見えましたけど・・・」

 何かを言いたげで、けれどそれを胸の奥にぐっとかみ殺した市三郎の表情を、向かい合わせの朱鷺子は見ていたのだった。そしてお互いに口をつぐんだ。秘密こそが、門倉家には必要だと思ったのだ。

 隼人は手に取った手記をまじまじと見つめた。表紙の「小七・記」という文字に、いやに人間味が感じられた。腸(はらわた)からこみ上げてくるのは怒りではなかった。恨みでもなかった。ただ泣きたくなるような思いだけが、何度も何度も波のように押し寄せてくる。

「・・・もしかしたら、あるかもしれません」

 朱鷺子が小さく呟いて、隼人は無言のまま彼女に目線を送った。

「隼人様のお父様と対峙したときのことも」

 そう口にした朱鷺子の方が、自分よりもずっと胸を痛めたように見えた。俯いて、組んだ両手の親指をじっと見つめている。

「・・・そうか」

 今、それ以上に何を言おう。いつもつい昨日のことのように思えていたことが、今や遠い昔のことに思えた。そしてこの手の内にある古い書物が、すでにこの世のものではないかのように。

「・・・これを、どうして欲しいと?」

 ややあって、隼人は非常にゆっくりと朱鷺子に問いかけた。俯き加減であった朱鷺子も、それに応じて目線をあげる。

「それは・・・差し上げます、隼人様に。ですから、どうぞお好きになさってください。破り捨てるもよし、焼き払うもよし。中を読んで思うところがあったのなら、それでも」

「そう心配するな」

 間髪入れずに隼人は言葉を継げる。

「俺はもう刀を握ることができない。それによしんばこの右腕が健在だったとしても、もう刀を誰に向けるつもりもない」

「隼人様・・・」

 それでやっと朱鷺子の表情は和らいだ。この手記を最初に読んだその日から、先ほどこの部屋に入った時にもまた、張りつめているものがあったのだろう。目にはじわりと涙が滲んでいた。

 「ところで、あの夜から今は何日目になる?」 

 朱鷺子が落ち着いたのを見て、隼人は切り出した。朧気な夜の記憶と今現在との間を隔てる空白の時間。確かめたいことがあった。

「あれから今日で三日目になります」

「三日、か・・・」

 思っていたよりもずっと時間が経ちすぎている。

 思うところのあった隼人は日記を懐に入れて、左手で立ち上がろうとした。しかし足腰に力が入らず、布団から僅かにも体を離すことができなかった。思っている以上に体は重く、打ちつけられたように動かない。

「無理はいけません。三日も寝たきりだったんですもの」

 朱鷺子は隼人の肩に手をおいて、もう一度その背を布団へとあてがう。そのか弱い腕で簡単に寝かしつけられてしまうことに、不満に思うところもあったが、いかんせんどうにも出来かねた。枕に頭をおくと、途端に体は下へ下へと引かれるようで、体力を回復させようとする本能が隼人の意識を遠のかせる。だが、ふとその肩に触れている手の温かさに、そっとその手首をとった。

「は、隼人様?」

 まったく予期しなかったことに、朱鷺子は急激に赤面する。隼人の手は大きく、朱鷺子の手首を握ると軽く一周して親指と中指がつく。

「・・・細いな」

 それなのに、今強く自分の心を支えている手。ある時は不安を表し、またある時は照れを表した。そして今はまっすぐに自分へと差し伸べられている。暗く囚われていた過去から、明るい青空の下へと誘うように。

「隼人様?」

 朱鷺子はもう一度彼の名を呼んだ。だが返事はなかった。すーすー・・・という静かな寝息だけが、狭い部屋の中を満たす。朱鷺子は手首を掴む隼人の手が離れるまで、ずっとその傍らにいたのだった。

 

 

前へ≪   ≫次へ

 ≫TOPへ