あの夜から五日が経って、隼人はようやくお堂さんを訪れていた。いつの間にか梅雨ももう終わりの頃で、湿気混じりの暖かい風が背の高い草を揺らす。空は青く、雲がゆっくりと流れていく。その穏やかな様相に、つい数日前に狂気に満ちた男がすぐそこに立っていたのだとは誰も思うまい。だが斬り合いは確かにあったのだ。足元の地面は血の染み込んだ上澄みが抉り取られており、揺れる草の波頭には所々黒い染みが見て取れた。
「旦那、島田の旦那」
その草むらから呼ぶ声が聞こえて、隼人は空から目線をおろした。
「辰、それに六助も」
最初に同じ場所で見たときには、嫌悪感しか沸き上がらなかったその顔も、今ではすっかり見慣れて信頼へと変わっていた。
「旦那、無事でなにより。死んじまったかと心配しましたぜ」
「いや、俺も連絡が途絶えてすまなかった。お前たちも元気そうで安心した。あれからどうしていた?」
「そうさなぁ、旦那がもう一度ここへ来るのを待ってたんで」
「俺を?」
そう言うと、六助は抱えていた筒上のむしろを隼人の前に差し出した。そして片腕の使えない彼の代わりに、むしろから見慣れた刀の柄の部分を見せる。
「それは・・・」
「あの夜、置いていきなさったんで拾っておきましたんでさ」
「やはり・・・ここを片づけてくれたのはお前たちだったか」
蓮角を斬った直後から記憶は曖昧だったが、この場所をそのままにしてきたことが気がかりではあった。目覚めた時に、誰一人として辻斬りの噂をしていなかったことが、どれだけ隼人にとって安心したか計り知れない。
「奴の骸はそこの川に流しやした。血の付いた土や草も一緒に流しましたがね。今はもう随分下流へ行き着いたでしょう。まぁ、幾分残りがありますが、秋になれば枯れ落ちて分からなくなりまさ」
「・・・そうだな」
雲が流れていって、いつの間にか消えていくように、川の流れも、季節の移り変わりもまた止まることを知らない。自分にとって不都合なものを綺麗さっぱり流してくれる代償に、自分もまたこのまま止まっていてはいけないのだと思い知らされる。
「これからどうする?」
しばらく川を見つめていた隼人が、目線をそのままに二人に尋ねた。
「あっしらは、ちょうどその瞬間に居合わせた訳じゃありませんけど」
不意に六助が口火を切る。
「奴の体に残った一閃の見事な刀傷に、旦那の生きざまを見た思いでした。それに元々旦那の仇討ちが終わるまでという約束でしたしね」
「行くのか、どこへ?」
「さあて、あっしらは根なし草でやんすから、どこへなりとも行けますよ」
「俺たちゃ兄貴みてぇに帰る故郷があるわけでもない。けど、ちょうど良くこの人探しのおかげで、馬の合う追い剥ぎ仲間を見つけましてね。そいつらと一緒に信州の方へ行こうかと」
「信州・・・か」
「旦那はここに居着くのでしょう?」
辰は確信を持ちつつも、実に柔和に問いただした。
「いつかは旦那にひどいことを言ったと、思わずにはいられませんでしたよ。子供だったんでしょう?あの呉服屋の娘は」
誰の、とはあえて言わずに聞いた辰の中途半端な問いに、隼人はただ無言で返した。だが心中では不思議な気持ちがしていた。斬り合いの前に蓮角にそのことを聞いたときには、ひどく心が揺らいだというのに、再びあの部屋で目覚めたとき、そんな思いは微塵もなかったのだ。そして今、辰に改めて聞かれて尚、心はとても落ち着いていた。仇の子だという事実を忘れたわけではない。だがそれを心に抱いてさえ、超越したものが隼人の中に生まれていたのだった。
「野暮なことは聞きませんよ」
旦那はそれが嫌いでしょう、と辰は若干茶化すように笑いを含める。隼人もまた柔らかく微笑んで返す。数日前には考えられなかったほど、穏やかな心持ち。
隼人はおもむろに懐から一冊の手記を取り出した。古い紙が風に揺れて、パラパラと音を立てる。
「それは?」
「ああ・・・」
言葉半ばのまま隼人は手記を見つめた。朱鷺子はこれをどんな気持ちで読んだだろう。どんな気持ちで「あるかもしれない」といったことだろう。辻の鷹が残していったこの手記を、手元に置いておくことにどれだけ怯えていたことだろうか。
「・・・まさか辻兄鷹の?」
「・・・いや」
隼人は大きく振りかぶると、手記を川に向かって放り投げた。手記は青空に弧を描いて、パシャンと小さな音を立てて水に沈む。隼人はその様を見つめていた。そこに長い間抱き続けてきた仇の鳥の姿などなかった。
「ただ、哀しい男がいただけさ」
報われぬままの魂も、川の流れに乗って輪廻へ進め。そう願って、手記が浮き沈みを繰り返していく様子を見えなくなるまで見つめていた。辰と六助も、それ以上はこのことで何も言わなかった。
「それじゃあ旦那、あっしらはこれで」
ややあって六助が口火を切る。そして持っていたむしろの筒を隼人へ託した。
「もう行くのか?」
「へぇ、日暮れまでに仲間に落ち合わなけりゃならんもので」
二人は腰を低くしつつ踵を返す。
「危ない真似は・・・というのも、おかしな話か」
「そうさぁ、この二月に比べれば、それ以上に危ないものもありゃせんでしょう」
徐々に離れていく双方の距離を、風がすり抜ける。草がざわざわと騒ぎ立て、互いが不敵に笑いあう猶予を与える。
「世話になった」
「とんでもねぇ、旦那」
「この二月、楽しかったですぜ。どうぞお達者で。尤ももう会うこともないでしょうがね」
「そうかもな。お前たちも達者で」
隼人は別れの言葉を交わした後に、二人がお堂さんの道をはずれて草むらの近道を行くのを見送った。二人の動きで揺れた草が、再び風に大きく揺らいで、それが収まると草の波立ちも消えた。隼人はそれを確認すると、ふっと小さくため息をつくと、もう一度空を見上げた。先ほど見上げていた雲もどこかへ流れ去っていて、広く青い空だけがそこにあった。隼人はむしろを左手できちんと持ち直して、来た道を帰っていった。言葉通り、辰と六助に会うことは、それから一度もなかった。
* * *
「こんにちは、節子さん」
その年の秋の頃、門倉の呉服屋の店先に杉並の奥方が声をかけた。呼ばれた朱鷺子の母、節子が「はーい」と答えて店の奥から顔を出す。
「あら、杉並の奥様。どうなさいました?」
「親戚からちょっと送ってもらってね。お朱鷺ちゃんにと思って持ってきたのよ、これ」
杉並の奥方は、手に持っていた小さな包みを開けて、その中に入っていた手乗りの犬の郷土玩具を取り出した。
「まぁ、犬張子(いぬはりこ)」
「安産のお守りにはもってこいなのよ。お朱鷺ちゃんに是非に」
「やだ、杉並の奥様ったら。あの子はまだつい先日結婚したばかりなんですよ」
「気が早いなんておっしゃってはだめよ、節子さん。貴女こそ、この間戌の日に水天宮にお参りに行ったでしょう?」
「あら、ご存じでした?」
「もちろんよ。貴女がもらってきた腹帯も、私のこの犬張子も同じ、でしょう?」
二人の年輩女性の会話は止まることを知らず、最初は店先であったものが、いつの間にか店の奥へと落ち着いて話し込んでいた。
「けれど、まぁ良かったこと。この家にもようやく男手が戻って。片腕だろうと呉服屋は営めますからね」
「本当に。一時はどうなることかと思いましたけど」
節子は茶を煎れて杉並の奥方に差し出した。
「今となっては、そう心配することもないでしょうよ。市三郎さんもおっしゃっていたわよ。あの人は随分表情が柔らかくなったって」
そこまで言うと、杉並の奥方は出された茶を一口すすって、そっと節子に耳打ちをした。
「市三郎さんの前では言いませんでしたけどね、今まで剣に一筋だった人の堅実な表情が和らぐのも、一つのお印みたいなものなのよ。市三郎さんもそうだったし、小七さんもそうだった。あの人だってきっと同じですよ」
「あら、まぁ」
節子と杉並の奥方は、互いに目を見合わせていたずらに笑った。ここ数日、朱鷺子たちがいないときに、このような話をすることが二人の楽しみとなっていた。尤も、朱鷺子はこのことを知る由もなく、いつの間にか見慣れぬ郷土玩具や帯が増えていることに気がつくのも、もう少し先のことであった。
「ところでもうすぐ暮れ六つだけど、お朱鷺ちゃんたちはどこへ行ったの?」
杉並の奥方は湯呑みを口に運びつつ、日暮れの早くなったおもてを見遣った。
「ああ、今日は市三郎さんの道場に顔を出す日でしたから、迎えにいったんですわ」
「こんな時間に?」
「いえ、出たのはもう随分前ですけど、寄り道をしてるんでしょうよ。あの二人の日課のようなものですから」
「あらぁ、結婚しても変わらずお熱いこと。それじゃもう一つの方も急ぎ送ってもらわないと」
「まぁ、また何かくださるんですか?」
暮れ六つの店じまい近い時間になって、門倉の呉服屋だけがにわかに賑やかだった。二人の女性の楽しげな笑い声が店の外まで響いて、家路を急ぐ人たちが何度も店先を振り返っていたのだった。
お堂さんには、二つの影が延びる。夕暮れの中立ち止まって、川のせせらぎを聞いていた。空には巣へと帰っていく鳥たちの群が見える。
「帰りましょうか」
それを見て、一人が呟いた。
「鳥が帰巣するように」
もう一人も頷いて、二人は寄り添い歩いて家路についた。
夜半を飛ぶ鳥は、あれ以来誰も見ることはなかった。
【完】
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