蓮角に生じている隙、そこにいち早く踏み込み奴より早く斬りかかる。そのために必要なもの、それは間合い。蓮角はさほど体の大きな男ではない。隼人の方が半尺ほど背が高い。上背があるということは、その分だけ手足が長いということだ。つまりお互いが同じ早さであっても、届く距離に差が生じる。むろん剣において間合いというものは、必ずしも体格に左右されるわけではない。修練を積んだ分だけ踏み込み、抜刀、斬撃に磨きがかかり、自分の体格以上に間合いを広げることも可能だ。
だからこそ奴の死角をねらうことに意味がある。それでも到底蓮角の先手の先をとり、一打目でしとめることはできまい。それならば逆に一打目はくれてやる。自分は返す二打目で後の先手をとる。いずれにしても三打目はない。打ち込めば打ち込むほど、こちらに遅れが出ることは先ほどの打ち合いで承知している。機会は一度きり、死角と間合いに気づかれれば二度とそこへは踏み込めない。
「何を考えているか知らんが、無駄だぞ。そんな震えた手で何ができる?」
カチカチと鳴り止まない鍔鳴りに、蓮角は嘲笑を浮かべた。隼人はそれに言葉どころか、表情ですら返さなかった。口を真一文字に結んで、ただ厳しく相手を見据える。場違いなほどゆっくりとした瞬きは、左目だけが繰り返す。呼吸は徐々に深く落ち着いていき、汗は一筋伝った後はすっかり消えた。刀の柄を再度握りなおして、鍔鳴りも静まる。ピンと張りつめて、風さえ隼人を避けていくように身一つ揺るがないその振る舞い。
「・・・ふん」
それをさも面白くないとばかりに、蓮角は鼻を鳴らした。そして一瞬で雰囲気を変えた隼人の様子に、ようやっと気だるい姿勢を動かした。正眼よりもやや斜に構え、膝を軽く折って体勢を低くした脇構えにして、相変わらず片腕だけで刀を握っている。あれほどおしゃべりだった口を閉じて、隼人が自分に向けてそうしているように、蓮角もまた隼人を見据えた。
風が二人の間をすり抜け、雲が三度月を隠す。
そしてもう一度月光が二人を照らしたその瞬間、お互いに見計らっていたかのように同時に踏み出した。隼人は刀を上方へ、蓮角は体の右水平に、それぞれ刀を振りかぶる。その動きもほぼ同時、しかし斬りかかる刀は蓮角の方がわずかに早い。
「もらった・・・!」
蓮角は確信して声にするが、一打目の先手が蓮角に奪われることは隼人の狙い通り。最初から一打目は捨てている、隼人の目線はずっと自身の切っ先ではなく、蓮角の刀を追っていた。
「・・・くっ・・・」
とっさに隼人は足を押し止め、もう半歩踏み込みたいところをぐっと堪えると、振りあげていた刀を瞬時に逆さに返した。やはり元人斬り、見た目の体格から推し量る間合いより、蓮角の刀はずっと広くに届いている。返した刀が割って入ったのは、まさに蓮角の刃が隼人の左の胴に達するその寸前であった。月下に刀と刀がかち合う鋭い音が響く。隼人はその音で手元の状態を読みとると、蓮角の刀を自分の右斜め上、蓮角にとっては水平に繰り出した刀が、狙いから大きく外れて振り切る形になるようはじいた。
「な、にぃ・・・!?」
隼人が一打目を捨てていたことなど予想だにしていなかった蓮角は、ここで初めて動揺を見せた。届くと確信していた刃を受け流されて、体勢は大きく崩れる。隼人が狙うのは次の先手、堪えた半歩を鋭く踏み込み、刀をはじいた勢いをそのままに蓮角より早く振りかぶった。振り下ろす一点は、蓮角の左肩の奥、首の根本。左目だけを瞬きさせることで明らかになった蓮角の絶対の死角。いくら広く遠くを見渡せても、その根本は見えるまい。
「覚悟・・・!」
躊躇うことなく隼人は刀を振り下ろした。蓮角も紙一重のところでかわそうと体勢の建て直しを計る。
ザンッと静かで鈍い音が一迅。
後の先手、制したのは隼人であった。
「くく・・・悪くない一打、だ・・・」
蓮角は絞り出すように一言つぶやくと、カシャンと音を立てて刀を取りこぼした。続いて膝が完全に抜けて、地面につく。蓮角の首元から入り、胸の中心あたりまで一気に袈裟斬りにした隼人の刀は、倒れる蓮角の体から重みを伴いながらも抜けて、同時に鮮血が辺りに吹き出した。道にも草むらにも、そして隼人の体にも、生暖かくドロリとした液体が、飛沫となって降り懸かる。勝負は本当に一瞬の出来事であった。隼人は今まさに蓮角が足下に倒れ、これほど不快な血の臭いが充満しているのにも拘わらず、まるで幻を見ているような感覚であった。ようやっと長らく止まっていた呼吸が再開したかのように、肩で息をするほどひどくあがっている。動悸は胸を突き破るほど激しい。びっしょりとかいた汗に風が吹き付けて、やけに背筋が冷たく感じられた。
「・・・うっ・・・」
突然隼人は右の二の腕に焼けるような激しい痛みを覚えて小さくうめいた。抜き身の刀をカシャンとその場に取り落とし、隼人もまた膝をついた。あまりの痛みに汗がどっとあふれてくる。隼人は奥歯を砕けんばかりに強く噛みしめて痛みを堪えながら、自分の右腕を見遣った。蓮角の返り血とは別に、赤く染まった右腕。蓮角の最期の一太刀を受けた二の腕は、骨に達するまで深く斬り込まれ、この激しい動悸に拍子を合わせるように血を流していた。手先は痺れを伴って痛む。だらりと下げたまま力の入らない右腕。斬り落とされたわけではなかったが、この右腕はもはや使い物にはなるまい。
「旦那・・・島田の旦那!」
ややあって路地裏から二人の男が飛び出してきた。苦い別れ方をしたはずの辰と六助が、赤く染まったお堂さんへ駆け上がる。
「や、こりゃ蓮角?!」
隼人の傍らに転がる骸を見て、辰が驚愕の声を上げた。
「どうにも不穏な物音がするんで来てみたんでさ。まさか旦那と小奴だったとは・・・。旦那が殺ったんで?」
「いやぁ・・・これはお見事。まさしく一太刀のもとに小奴を斬り伏せるとは・・・お見逸れしやした。・・・旦那?」
いくら話しかけても言葉を返さない隼人の様子に、辰が屈み込んで顔色を伺った。その目に映ったのは段々と血の気を薄れていく顔に、血の止まらない右腕。
「旦那、こりゃいけねぇ。血を止めなけりゃ死んじまう。六助、早くさらしを持って・・・旦那?」
二人のやりとりをまるで無視して、ゆらりと隼人は立ち上がった。顔面はいまだ蒼白で、体はふらついている。しかしそれでも隼人は歩きだした。何かに導かれるように、両足をひどく引きずり、右腕からの血が地面に滴っていることすら気にとめない様子で、抜き身の自分の刀すら置いていく。
「旦那、どこ行くんで?そんな体じゃいけねぇ。旦那?!」
「待て、六助」
隼人の行く先に思うところのあった辰は、追おうとする弟分を止めた。辻兄鷹の家族への仇討ちを拒んだこと、命がけで蓮角に挑んだこと・・・、そうだとしたら合点が行く。
「旦那ならきっと大丈夫だ。それより骸と血をこのままにするわけにはいくめぇよ。朝までになかったことにするんだ、いいな」
隼人は自分の背後でそんなやりとりがあったことは知らないままだった。ただ朦朧とした意識の中で、自然と足が向かっていく。空にはいつの間にか雲が消え、月はもう隠れることはなくなって、月光が隼人の行く先を照らしているかのようであった。
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