「許さん・・・!」
隼人は一気に抜刀し、正眼に構えた。その切っ先を数歩離れた先の蓮角の喉元に合わせ、そして射抜くように睨みつけた。腑に怒りが止めどなくこみ上げてくる。もはや一刀の元に蓮角を斬り伏せ、その息の根を止めなければ収まらない。
「ふふ・・・いいねぇ、その殺気」
蓮角もやおら刀を抜く。だがその抜き身の刀をだらりと片手に垂らしたまま、なおも酔狂な目つきで隼人を見据えた。挑発しているのか、自信過剰なのか、鉄壁の力の差か。一見隙だらけに見えるその風体。
「どうせなら本気でこい、島田の若造。それでも俺にゃあかなわんがな」
「そんなもの」
やってみなくちゃ分からんと、口にはせずに足を摺った。月が再び雲によって隠れる、二人の間を風が吹く。さわさわと揺れる草木と、音もなく波立つ水面。先ほどと変わらぬ景色の中の、異様なまでに殺気立った二人の男。それをのぞき込むように、再び月が顔を出す。
「・・・はっ!」
隼人が跳ぶ。正眼に構えていた刀を、右足を踏み込むのと同時にやや右上方に上げ、だらりと刀を下げたままの蓮角の左胴元へ一気に振り下ろす。隼人が最も得意とした一打目。道場稽古ではほとんどかわされたことがない。しかし・・・
ギィンッ・・・
鈍い音と、固い物に思い切り刀をぶつけた衝撃に、手がビリビリと痺れた。直後にカチカチと刀のせめぎ合いが響く。いつの間にか掲げられていた蓮角の刀が、しっかりと隼人の一撃をくい止めている。刀は奴の体の右側にあった。まして蓮角は左目のつぶれた隻眼。どうしたって体の左半分に隙が生じやすいのは道理。それでもなお、この一撃を易々と防ぐか。
「なかなかいい剣打だ。道場稽古でならな」
「くっ・・・」
隼人は蓮角の刀を押し返し、一歩分の距離を置いた。一度退けた右足でザザザ・・・と地面を掘って、わずかな一瞬で足場を踏みしめると、再び斬り込んだ。一打目と同じく蓮角の左側から水平斬り。蓮角はそれを上へとはじき返す。その瞬間に隼人の胴に生まれた隙を突こうとするが、すんでの所で隼人は左足を地面から外してそれを避けた。それでも切っ先は着物の衿を少し捉えて、ビッと斬り裂く。
「ほら、まだ胴がガラ空きだぜ?」
蓮角の刃はしつこく隼人を追ってくる。まだ隼人の体勢が整わない内に迫る刃を、剣先で防でいる暇はない。隼人はとっさに柄の先で刃を防ぐ。鉄拵えの柄頭に切っ先がはじかれ、今度は手元からビリビリと痺れた。それを堪えてさらに蓮角を押し返す。
「今度は足下がお留守だ」
蓮角はまるで子供の相手をしているかのように、余裕しゃくしゃくと言及してから攻めてくる。刀をはじいた分だけ浮き足だった所を、蓮角が軽く足払った。隼人の左足はまったく頼るところを失って、体全体がガクッと崩れる。
「終わりか?若造」
容赦なく蓮角の切っ先が隼人を捉える。まっすぐに喉元めがけて迫りくる刃を、隼人は体を地面に転がせてその場を逃れた。着地と同時に数歩さらに距離をとる。刀はなお蓮角に向けたまま警戒し、片手を離して喉元を確かめた。一瞬貫かれたかと思った。だがすんでの所で刃をかわし、首の皮一枚とて斬られてはいなかった。隼人はそれを何度も触って確かめる。まるで生きた心地のしない月下の斬り合い。
「楽しいなぁ、え?島田の若造よ」
蓮角はこの打ち合いが何でもなかったかのように、抜き身の刀をまた無気力に下げてぶらぶらと揺らす。この男は本気で斬り合いを楽しんでいる。そしてそのことにあまりにも慣れすぎている。
変わって隼人はといえば、ほんの少し剣を交えただけだというのに、肩で息をするほどひどく気力を消耗していた。浅く早い呼吸が気持ちを焦らせ、動悸をも炊きつける。夜風はまだひんやりと心地よい季節にも拘わらず、額には滲むほどの汗をかいていた。ほんの数打刃を交えただけだというのに、両手は今にも刀を落とさんばかりに痺れていた。衝撃は未だ残っている、手先と、それから脳裏に。
隼人は固唾を飲み込み、首元にあてがっていた片手を刀の柄に戻した。痺れによるものか、それとも震えか、鍔がカチカチと細かく鳴った。頬を汗が一筋伝う。
互いに剣客ならば、この少しの打ち合いであっても相手の力量を計るには十分だ。そして分かる。度胸、凄み、経験値・・・何もかもが蓮角の方が勝っている。加えて精神的な余裕さえ、大幅に隼人が遅れを取っている。奴は・・・蓮角は幕末の頃にあまたの剣客を斬り捨て、そしてそれを楽しんできた。今更人を斬ることに何の躊躇いも焦りもない。
隼人にしてみても明治になってからずっと、刀を精進させることを疎かにはしなかった。けれどあくまで道場稽古の延長線上、真剣は握っていても殺意を持って相手に向けたことはなかった。剣客として命を奪い合うのに決定的な物が、足りない隼人と、十分すぎる蓮角。月夜の辻斬りにおいて、その差が大きくのしかかる。
(焦るな・・・)
そして恐れてはいけない。隼人は二つの言葉を胸中で繰り返した。蓮角は相変わらず笑みを浮かべ、ゆらゆらと酔狂につかみ所がない。だが、その中にも隙は必ずある。
(考えろ・・・)
たとえばその余裕の態度。届くはずがないと思えば、相手の刀は必然的に短く見える。たとえばその左目。死角なしと過信していればわざわざ気を配らない。この二つの隙はとても大きい。これに付け入るほかに手はない。隼人はわずかに両手の指を浮かせて刀を握り直し、ふーっと息を吐いた。その間にも雲は流れ、沈黙と闇が訪れる。ジャリッと隼人の足摺の音が響く。一定の距離を保ってゆっくりと、蓮角の死角を見定める。
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