残された隼人は、一人になった。
部屋はしんと静まり返って、薄い障子の向こうの音さえ、まるで遠くのもののように感じられた。父の仇討ちを心に決めて以来、慣れているはずの一人が、随分久しく思えた。朱鷺子や辰・六助に囲まれていた数ヶ月が、ずっと昔からそうであったように思えるほど馴染んでいた。あまつさえ、これから先の人生がそうなっていくではないかとすら。けれどこれが現実。仇討ちを決めて、幸福になどなれるわけもない。
何故自分は朱鷺子に惹かれたのだろう。隼人は虚ろな心に問いかけてみた。
最初は、そう、最初はただの偶然であった。決して遠目に朱鷺子を見初めたわけではなかったし、間近に見たところで最初は別段思うことがあったわけでもなかった。悪漢に囲まれた女性を助けるなど、剣客としては至極当然のこと。それ以下でもそれ以上でもなかった。
だが、二回目にあったときに彼女の抱える影を知った。自分と同じ影だ。幕末に大切な人を惨いやり方で奪われた、奪った相手を許せるわけもない。しかしそれでも朱鷺子は明るく笑っていた。この明治の青空の下、前向きに懸命に暮らしながら、この平穏を好きだと笑った。それが自分にはなんと眩しかったことだろう。そして同時にとても羨ましかった。幕末の影を忘れたわけでもなく、いや、それすらも許容して浮かべる笑みを、心底美しいと思ったのだった。
そんな笑顔のそばにいて思ったのだ。ああ、いつかは自分も彼女のように、影を持ち合わせつつも笑ってこの太平を好きだと言えるようになれるのだろうと。或いはこの仇討ちが終わったならば、心も晴れて自然と安らいでいくだろうと。
思い上がりも甚だしい。自分に笑顔が戻るどころか、朱鷺子の笑顔さえ奪ってしまった。せめてもの慰めに仇討ちが終わったという事実があるのに、安らぐどころか心は曇天。梅雨に向かっていくこの空よりもずっと重く暗い。得たはずのものが手の内をすり抜けていき、おろしたはずの荷物がより重くなってのしかかる。数年間を仇討ちに費やして、そして何一つ残らなかった。ただ大きな欠落だけが胸の内に生まれただけ。
隼人は傍らの刀を手に取った。カチリとかすかに鍔が鳴り、ひんやりと重い。柄に残る血の染みは、あえてそのままにしておいたもの。刀は父の形見であった。ある時はこの刀を欲し、ある時は悲しみを抱いて、またある時は仇討ちを果たす夢を見た。幕末から常に連れ添った刀。今はその先に何も見えない。
「・・・奴の言っていたことが本当なら・・・」
じきに発令されるであろう廃刀と仇討ち禁止の令。今よりもずっと剣客には生きにくい時代がやってくる。この時勢にあって刀を捨てるというのも、或いは一つの英断なのかもしれない。
しかしそうはいっても、刀を捨てて何が自分には残るというのだろう。剣術と仇討ちにのみ生きてきて、それ以外に思い当たるものなど浮かばなかった。故郷にはもう何も残ってはいない。行く宛もなく、また生きる術もない。隼人は捨てるという選択肢を心に浮かべておきながら、逆に刀を強く握りしめた。
「・・・くっ・・・」
隼人は自らのふがいなさに、歯が砕けんばかりに強く噛みしめた。
このまま仇討ちを忘れて生きるのにも蟠りが残り、かといって遺された家族にその仇を晴らしたところで、後悔の念に駆られることも目に見えている。刀を手放す考えを巡らせておきながら、結局は刀なしには生きられぬ我が身。いつまでも幕末にとらわれたまま、一歩を踏み出せないでいる。いざ踏み出そうにも、その足の向け所に迷っては、明治の世は一層遠のくばかり。
仇討ちを果たしたい思いと、朱鷺子を想う心が今まさに隼人の胸中でせめぎあっている。天秤はゆらゆらと左右に揺らめいて、途中で止まることがない。
だが分かってはいるのだ。ただ一つだけ分かっている。
「・・・刀など、とても向けられん」
それだけが揺るぎない決意。それはつまり、この仇討ちの完遂が、もはや叶うものではなくなっているということ。やはり終わったのだ、仇討ちは。隼人にとって、あまりにも多くのものを犠牲にして。
隼人は刀を再び傍らに置いて、それからゴロリと横になった。暗く湿っぽい天井を、どこともなく見つめる。居着いた頃は鬱陶しかった蜘蛛の巣も、今では小蠅を取ってくれる良い仕掛けになった。不気味に映った天井の染みも、もう何ということもない。各地を渡り歩いた数年間、ここは実に居心地の良い場所であった。
(・・・離れよう)
隼人は心でそう呟いて、ゆっくりと瞳を閉じた。
辰と六助は逃げだと思うだろうが、かといって、ここに留まって得られるものなど何もない。最後に礼だけは言っておかなければ。どんな罵声を浴びせられるのだとしても、辻兄鷹を求めて随分裏の世界を訪ねてくれたことに変わりはない。
朱鷺子・・・朱鷺子には何も言うまい。そして会うこともすまい。胸中に残っている姿が、あのお堂さんでの怯えたものというのにはひどく後悔が募る。できればもう一度、出会った頃のように笑ってほしかった。だが多くは望むまい。今は一刻も早く自分のことなど忘れて、また明るく暮らしてほしい。この太平の明治の世の中で。
隼人は記憶の中で一際眩しい朱鷺子の笑みを思い浮かべて、再び瞳を閉じた。しかしそんな光の中に影が差す。一つ、気がかりなことは・・・
(蓮角・・・)
嘲笑ばかりの狂気の輩。あの男、今更何をしでかしたとしてもおかしくはない。お堂さんで対峙した折、意味深に残していった「同じ」という言葉が気にかかる。あの男との共通点など、かけらすら嬉しくもないが、どうにも心に引っかかる。奴の仇も辻の鷹。確かにそれは同じであった。そしてその鷹が死んだ今となっては、行き場がなくなったこともまた然り。そして自分は町を去る。奴もまた町を去るのか?
(いや・・・)
隼人は首を横に振る。あの時、事実を知る直前まで、自分は辻兄鷹の家族に手をかけることすら厭わない思いではいた。けれど蓮角に辻兄鷹の正体を知らされた時点で、心のどこかで仇討ちを半分以上諦めていたのだと、今となってはそう思えるのだ。
だが辰と六助はそうは思わなかった。辻兄鷹と朱鷺子との関係を知らずにいるとは言え、残された家族に仇を討つのが道理だと、そう考えていた。どんな事実に直面しようと、仇討ちの心は揺らぐことなし、と。そのことを蓮角が「同じ」だと言ったのだとしたら・・・
「・・・まさか・・・」
隼人は導き出した答えに、弾かれるように飛び起きた。心臓は早鐘のように、そして冷たく鼓動を繰り返す。隼人は考える時間も惜しいように、刀をひっつかんで長屋を飛び出した。梅雨の空は、その独特の暗さに更に夜をまとい始めて、より一層重く沈むようであった。
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