「なんと・・・辻兄鷹は死んでいたと?!」
互いに町を離れていたが故に、しばらくぶりに会った辰と六助は、思わず隼人の言葉を繰り返した。いつもお堂さんの草むらに潜んでいる蓮角を警戒して、隼人の住む借り長屋の一角。梅雨に入って見上げる空は、嫌みなほどに曇っている。
「確かにそう噂する者は多かったですがね」
それでも核心に迫るものではなかった、そう言いたげに訝しげな表情で辰が呟く。今までどんな噂があったにしてもその確証のないことが、隼人にとっては一種の救いでもあった。
「・・・お前たちが聞いていたのは、ただの噂程度でしかなかったんだろう?」
「そりゃそうでさ。噂以上に奴を知る者など、俺たちの間にはいやしません。忽然と姿を消したのは死んだから。そういう安易な考えの下での噂でしたよ」
「あとはそれの一人歩きでしょうな」
「やはり、な。旧幕が隠していると見るべきか・・・」
動乱の幕末、京都市中見回り役に新撰組を配しておきながら、その一方で秘密裏に人斬りを暗躍させていたとは、口が裂けても言えようはずもない。しかし人斬りの鑑とも言うべき辻兄鷹の凶行に、さすがに存在そのものをひた隠しにすることはできなかった。それでせめてもの手だてに、その行く末を隠し、曖昧にしたのだ。
何の前触れもなしにいきなり姿を消して、その上行く末を誰も知らないとくれば、その存在は伝説と化す。この世代では消しきれなかったにしても、近い内に辻兄鷹の存在を知る者も信じる者もいなくなる。旧幕の闇も消えてなくなる。それが狙いだったのだろう。
思惑通り、噂は一人歩きを始めている。辻兄鷹が伝説上の人物となってしまうのも、そう遠くはないだろう。
「旦那、その話蓮角の野郎からの知らせですかい?」
「ああ」
「なるほど、さすが腐っても維新派ってわけかい。おそらく政府の上役をゆすったに違いないですぜ。なにせ奴自身もまた明治政府にとっては闇。明るみになれば、黙っていない輩もいましょうからな。特に薩摩の方にはまだくすぶっている連中もいると聞きます、と、話が逸れましたな」
辰はばつの悪そうに最後の言葉を付け足して、小さく咳払いをしてから再び隼人を見遣った。隼人は腕組みをしたまま、険しく眉間にしわを寄せている。どこともなく向けられている目線は厳しいもので、今彼が葛藤の中にいるのだと言うことは一目瞭然であった。
「で、奴の本末はどうなんで?やはり生まれはここだったんですかい?」
「ああ」
「家族は?」
「・・・いる」
「生きて?」
「そうだ」
「ならば良かった」
ほっと安堵の声色で六助が口にする。
「・・・良かった?」
「ええ、親の仇は子にも然るべき。息子でもいれば理想的ですがね」
「・・・やはり、遺された家族に剣を向けるべきなのか・・・?」
ほつりと隼人は呟いた。辰と六助に言ったのではなかった。ただ自身に尋ねるように小さく口にした。頭によぎる朱鷺子の姿。あの日、すがるようにして隼人に尋ねたその言葉。
「何を言いなさるんで、旦那」
隼人の言葉を聞き取って、虚を突かれたと同時に訝しげに辰が聞き返した。
「仇討ちとは本来そういったもの。本人が死んだからと言って、その家族がのうのうと生きているのは割にあわんでしょう」
「・・・そうだな」
「旦那、もしやその覚悟なしに仇討ちを口にしていたわけでもあるめぇ」
だが、辰と六助は知らない。辻兄鷹の遺された家族が、他ならぬ朱鷺子であることを。無論隼人のその覚悟がなかったわけではなかった。旧幕の思惑通りか、風の噂に歩きだした辻兄鷹の行く末に、或いは遺族に剣を向けざるを得ないとしても致し方なしと考えていた。仇の子だと強く先入観を持って臨めば、心も鬼になるだろうと。
だが、どうして今更なれようものか。今をもってさえ、思い浮かべる朱鷺子の姿は、今まで以上に眩しく感じられた。仇の子、そんな憎い思いを抱くことができようはずもない。ましてその眩しさの中に、深い悲哀を滲ませていれば、なおのことであった。
「今すぐは・・・動かん」
やっとのことで隼人は呟いた。精一杯の言葉であった。
「旦那、怖じ気付いたんで?」
「言っちゃあ何だが、見損ないましたぜ、旦那」
「少し黙っててくれ!」
普段は声をあらげることのない隼人が、厳しく一喝する。強く着物の裾を握りしめることで、拳を床に叩きつけるのを抑えていた。或いはその拳に、辰や六助の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いも秘めていた。二人もそれを感じ取って、思わず口をつぐむ。一瞬「所詮は若造か」と見くびった心をもう一度思い直した。隼人の表情は、決して臆病風に吹かれた者が浮かべるようなものではなかったのだ。
「す、すまねぇ、旦那」
怖ず怖ずと呟いた六助を、隼人は鋭く睨みつけた。
わかってはいるのだ。辰と六助は何も知らない。ただ一般論を口にしているに過ぎないのだと。
いっそ素直に辻兄鷹と朱鷺子の関係を打ち明ければ早い話だというのに、今の隼人にはどうしてもそうすることができなかった。心の中ではまだどこかその事実を否定していたい。けれど、今辰と六助に打ち明けてしまうと、自動的に事実を肯定することになりそうで言えなかったのだ。
二人を一方的に責める、自分の方がお門違い。むしろ責められるべきは自分であるのに、何も言えないでいることが実に腹立たしい。隼人は言葉を次ぐ代わりに、ギリリときつく奥歯を噛みしめた。どうすることも出来ないでいる閉塞感に、呼吸さえも詰まりそうになる。
「・・・今日は、行ってくれ。もう・・・」
押しつぶされそうな喉を堪えて、途切れ途切れに呟く。心中は大いに乱れていた。焦りと怒りと惨めさが、代わる代わる波のように押し寄せてくる。
辰と六助は、そんな隼人を気遣うようにして、互いの目を見合わせてからおもむろに立ち上がった。癖のある引き戸をガタガタと音を響かせて開けると、何も言わずにそのまま長屋を後にした。
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