「そんな・・・」
朱鷺子は視線を最後の日記に落とし、ガタガタと指先を震わせながら呟いた。どこにも明確な記述があったわけではない。けれど、どこをどうひっくり返せば否定できるというのだろう。これではまるで・・・
「違う・・・違うわ・・・」
朱鷺子は俯いたまま首を横に振った。反動でハラハラと涙がこぼれ落ちる。信じたくないことが、今はっきりと朱鷺子の前に突きつけられていた。
兄が死んだのは、冷たい秋雨の夜であった。夜中に誰かに斬られ、翌朝発見されたのち、骸だけが我が家に帰ってきた。あの異様に白く冷たい肌をどうして忘れられようか。だが、今の今まで兄が誰に斬られたのかは、まったく謎のままであった。あの時代、そこここで大小様々な動乱があったために、誰に斬られたとしてもおかしくない状況ができあがっていた。
だから・・・そう、たとえ兄を斬ったのが辻兄鷹だったとしても、頭から否定する要素はない。けれど・・・
「・・・違う・・・」
誰かにそう言ってほしい。譫言のように朱鷺子は言葉を繰り返した。この手記を読んで素直に感じた通りとしたなら、兄を惨殺したのは・・・隼人の父をも殺し、彼が仇と狙うのは・・・我が父・門倉小七をおいて他にない。
しかしそこまで考えてから、何かに気がついて弾かれるように朱鷺子は顔を上げた。
「・・・そうだ・・・そうだわ」
父が辻兄鷹のはずはない。確か隼人が言っていた、辻兄鷹は小柄で背が低く、その上で目つきの鋭い男であったと。そんな体格の人斬りが、父であるわけがない。そう・・・何故なら小七は・・・
「背が高かっ・・・た・・・?」
希望は一瞬にして再び曇る。朱鷺子は確かであった確信をほつりと呟いてから、最後に疑問符を付け加えた。
父・小七は背が高かった・・・誰か一人そんなことを口にした人があっただろうか。
朱鷺子は正直生前の父の姿をかけらすら覚えていなかった。そのために父の姿を思い描くとき、そこには必ず背の高かった兄の姿を重ねていた。母も朱鷺子も背は普通程度でしかない。ということは、兄に上背があったのは少なからず父の影響であろうと、何の違和感もなくそう思いこんでいた。
だが違うのだ。母は兄の背のことを必ずこう言っていたし、無意識のうちに朱鷺子も口にしていた。「誰に似たのか、珍しく兄は背が高かったのだ」と。
兄は父に似て背が高かったのではない。何の因果があってか一人だけ抜きんでて背が伸びたのだ。逆に言えば、そう、父の背は高くなかったのである。
朱鷺子は右手を口元にあてがって、再び言葉を失った。冷たく重い鼓動が、ズキズキと痛みを伴って大きく鳴っている。嗚咽さえこぼれそうな喉を必死に堪えて、朱鷺子はなおも手記との矛盾点を探した。心が叫び声をあげている。
誰か・・・誰か・・・誰か・・・っ!!!
「お朱鷺ー!」
不意に階下から母の呼ぶ声がした。はっとして慌てて顔を上げた朱鷺子は、涙の滲んでいた両目をとっさに拭った。すぐに返事が出来なかったのは仕方がない。喉は押しつぶされそうに痛い。
「お朱鷺ー?」
「は、はぁい!」
朱鷺子はならべく平静を装って返事をする。そしてすぐに手記を閉じて、腰掛けていた急な階段の裏にとっさに隠した。おそらくは誰も見ることのなかった秘密の手記・・・兄の死を少なからず引きずったままの母に見つかるわけにはいかない。
「お朱鷺、杉並の奥様がおまえを訪ねておいでだよ。一度おりていらっしゃいな。」
「杉並の奥様が・・・?!」
一瞬ドキリと大きく胸が高鳴って、心は複雑な装いを見せた。保留のままであった問いかけの答えか、それは今まさに求めている言葉であるのか。不安と希望とが混ざりあって、吸い込む空気がより冷たく感じられた。
階下では相変わらず噂好きの杉並の奥方が、ちょうど別の話題を母に振ろうとしていたところであった。そこへ朱鷺子が今にも転ばんばかりの勢いで降りてくる。緊張が足を震わせて、すんでのところで階段を転げ落ちるところであった。
「奥様・・・!」
「あら、お朱鷺ちゃんったら大丈夫?」
朱鷺子の様子にカラカラと笑みを浮かべて、どこか人事のような杉並の奥方。その隣で少し母が訝しげに眉を潜めたのは、屋根裏でひどく汚れたままの着物と転びそうになったことを戒めたかったからだろう。けれどその場では何も言わずに、母は杉並の奥方に会釈をして表の店側へと戻っていった。
「奥様・・・あの・・・!」
「そうよ、お朱鷺ちゃん。この前の問いかけのこと、昨日ふっと思い出してね。本当イヤだわ、私ったら。こんな大事なことを思い出せなかったなんて」
目の前の瞳が潤んだままの朱鷺子をよそに、噂を話すときの杉並の奥方の嬉しそうなこと。この大きな心臓の鼓動は聞こえてはおるまい。それならばそれで、救われる気持ちも幾ばくかは感じられる。
「そ、それで・・・その人物というのは?」
「ええ、そう。小柄な体ながらも目つきの鋭い、それでいて剣の腕の立つ男・・・だったわね。そうと言ったら、一人しかおりませんよ」
「その人は・・・?!」
普段話の上手な杉並の奥方の、盛り上げるような言い回しが歯がゆくさえ感じられる。それが増長させたのは、朱鷺子の心の不安に他ならない。呼吸が浅くなっていく。瞳には再び涙が滲んでくる。
「門倉小七さん、そう、貴女のお父上ですよ。ええ、ええ、間違いありませんとも。とても精悍な方でねぇ、小さい頃からそりゃあ剣に秀でた人だったのよ」
杉並の奥方は何の気もなしに、ただ父親をよく覚えていないであろう朱鷺子に教えるように口にした。それがどれだけ朱鷺子の心を打ち砕いたろうか。階段下に隠してきた手記が、そこに記されていた文字が、違うと否定し続けた思いが、一気に朱鷺子の胸に打ち寄せる。
「そ、そんな・・・」
朱鷺子は涙に声を震わせて、弱々しく首を横に振ると、崩れるようにその場に座り込んでしまった。すっかり冷たくなった手足の先の感覚は既にない。
「あら、やだ。どうしたの?お朱鷺ちゃん、お朱鷺ちゃん?!」
その声ももはや朱鷺子の耳には届くまい。今目の前に突きつけられた真実に、朱鷺子は肩を震わせて打ちひしがれるのみであった。
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