溜息は良い。重い心のしこりが呼吸とともに外に出ていくようで、重圧から逃れられる。けれどそれも息を吐き出している一瞬だけともなれば、溜息を繰り返さないわけにはいかなかった。朱鷺子は今日になってもう何度溜息をついたことだろう。空模様はといえば今日も曇り。いっそ泣いてしまえばいいのに、この朱鷺子の心持ちと同じように。そうすればいくらかは、すっきりと晴れるものもあるかもしれないと思いながら。
朱鷺子の心の中は、後悔と悲壮感でいっぱいだった。隼人に背を向けた瞬間から、ずっと心は立ち止まったまま。お堂さんに捕らわれ続けている。一体あの時何と言えば、この心は報われたのだろう。"何を知ってもあなたを信じてついていく"と?それとも"もうあなたに関わることを許されなくなった"とでも?それとも沈黙のまま会わざるべきだったのか・・・。分からない。きっとどんな行動に出ていたとしても、結局のところ後悔していたのだろうけど。
「お朱鷺」
不意に自分を呼ぶ声に、朱鷺子は庭を掃きながら俯いていた顔を上げた。母の顔に今の朱鷺子の顔はどう映ったのだろうか。怪訝そうに眉を顰めてこちらを見ている。
「なに?おっ母さん」
言葉を止めた母親に朱鷺子は聞き返す。明らかに悩み事のある顔を前にすると、人はその原因を尋ねるのを躊躇ってしまうものなのか、母は相変わらず眉間にわずかにしわを寄せながらも、あえて朱鷺子に聞いてくることはなかった。
「・・・お庭はもういいから、ちょっと屋根裏に行ってきてくれないかい?」
「屋根裏に?」
「ああ、ここのところずっとこんな天気で、しまってある反物が心配でね。いくつか持ち出してきてほしいのさ」
「わかったわ」
朱鷺子は力無く頷いて承諾すると、箒を縁側の脇に立てかけて紙切れを持つ母に歩み寄った。
「これ、持ってきてほしい反物の場所を書いてあるから。分からなかったら戻っておいで」
「・・・はい」
庭からあがって母から紙を受け取り、朱鷺子は目を伏せたまま縁側を階段の方へ歩いていった。そんな元気のない彼女に、今更何があったのかを問う必要はない。数日前から朱鷺子は、いつも出かけていく時間に外出しなくなった。おそらく例の青年との間に何かあったのだろう。だがいくら母親とはいえ、男女の仲を根ほり葉ほり聞くのは大変に野暮ったいことであるし、第一あの青年とのことで最初に苦言を呈したのは自分自身であった。聞けようはずもない。あの苦言は決して娘を苦しめるために言ったわけではなかったのだ。時が解決してくれる・・・そんな一縷の希望に託して、母は朱鷺子の背を見つめるばかりであった。
門倉家の屋根裏には、沢山の行李や小降りの箪笥が何竿か並んでいる。中には仕入れた反物や、季節の着物が納められて店頭に並ぶのを待っているのだ。朱鷺子は軋む階段を登って二階にあがり、更に押入の中に隠れている梯子から屋根裏を見上げた。急な梯子の下からは、その真上にあたる天井部分しか見えない。屋根裏は昼でも暗い。尤もこんな曇りがちの日和では、階下の部屋でも薄暗かったが。
朱鷺子は梯子を登る前に、母から受け取った紙を広げて内容を見直した。書かれていたのは屋根裏の簡単な俯瞰図で、いくつかの四角が塗りつぶされている。お目当ての反物はその四角の表す位置にある行李の中にあって、指定された全てを安全な階下に移し切るには、何往復かしなくてはならないようだった。
「とにかく上がって見てみないと・・・」
屋根裏には普段、全くと言っていいほど足を踏み入れない。それこそ店頭に並ぶ季節の着物を入れ替えるのに、年に二、三度登り口近くで作業をするくらいであった。朱鷺子は梯子の側に常に置いてある燭台に火を灯し、両足・片手を使って梯子を登っていった。ふらふらと頼りない足下に合わせて、蝋燭の明かりもゆらりと揺らめく。加えて梯子がギシギシと音を立てる。慎重に登っている割にはどうも騒々しくて落ち着かない。おかげで鼠に会わずに済んでるのだから、怪我の功名と言えばそうであったが。
「・・・ふぅ」
梯子を登りきって、朱鷺子は一息ついた。上から見下ろすと、ほの暗く感じた階下の部屋すらとても眩しく見える。相変わらず屋根裏は埃臭く、黴臭い。天井には雨漏りの染みが滲んでいる。確かにこれでは上等な反物を心配しない方がおかしい。
朱鷺子は蝋燭の明かりにもう一度紙を開いて、持ち出す行李を確かめた。数は全部で四つ。だが単純に四往復では済むまい。行李の中が満杯であれば、小分けにして持ち出さなければならない。
「とにかく開けてみないと、ね」
暗がりに一人では、どうしてか独り言が増えるもの。朱鷺子も誰にともなくそう呟くと、手短なところから行李を開けていった。
一つ目は満杯。中には反物と仕立て上がりの着物が数枚入っていた。朱鷺子はまず反物を抱えて下に降りると、もう一度上がってきて行李ごと抱え込んで運んだ。二つ目も満杯。三つ目は行李の半分ほどしか入っておらず、往復回数を減らしてくれた。残す行李はあと一つ。満杯ではないことを願うこの腕の痛み。
「あら・・・?」
不意に水滴の垂れる音が耳に入ってきた。外はとうとう雨が降り出したのだろうか。窓のない屋根裏からは外の様子は窺い知れない。この音が雨漏りであるなら場所を確かめて塞がなければ・・・、朱鷺子は燭台を掲げて辺りを見回した。
「・・・あそこだわ」
屋根裏の奥の隅、古い小降りの別の行李が置いてある辺りから水滴の音が聞こえている。朱鷺子はそれを突き止めると、四つ目の行李を開ける前にそちらへ近づいた。はて、このような行李がこの屋根裏にあったろうか。見慣れぬそれは年月によって茶ばみ、全体に埃を被っている。その上行李は縄で開かないように縛られており、それだけでなく蓋を封じた紙すらも破った形跡がなかった。何らかの事情があって長い間この行李が開けられもしないまま、この隅に追いやられたのだと言うことが伝わってくる。天井からの水滴は、そんな行李の上にポタポタと滴っていたのだった。
「大変・・・」
何故こんなになるまで放って置かれたのか。上等な着物がしまってあるようには見えないが、念のため朱鷺子は行李を縛っている縄を解き始めた。続いて躊躇することなく封の紙も破って行李を開けた。小さな行李の割には、その中身は半分も満たされていない。中には男物の着物、汚れてボロボロの、とても売り物とは思えない。角帯や足袋に至っては、雑然と投げ込まれたままになっている。水が中まで浸透したような形跡はないが、長くしまわれたままだったせいか、暗がり特有のひんやりとした感覚が感じ取れる。その冷涼感が、朱鷺子にはまるで中の着物が湿っているように思えて、心配になってさらに行李の深くまで確かめてみた。
「・・・なにかしら、これ・・・」
朱鷺子はそんな中からとても不審なものを見つけて引っ張りだした。それは四角く平たいものが、角帯によって雁字搦めにされていたものであった。書物・・・だろうか。角帯の隙間から、束になった紙であることが窺える。濡れた形跡はない。
不可解に思いながらも、朱鷺子は行李を水滴の落下点から遠ざけてから蓋を閉め、幸いにも軽かった四つ目の行李をおろした後に、燭台とともに持ち出した。そして急な階段の下から二段目に腰掛けて、角帯を解いていく。この帯はもう使えまい。長く縛られたままになっていたが故に、折り目が強くつきすぎてしまい、しなやかさをすっかり失ってしまっている。そんな中から現れたのは、一冊の書物。表書きはない。その代わりに左下に小さな文字で「小七・記」と記されていた。
「・・・小七」
小池から聞いた父の名。するとあの行李の中にあったのは父の荷物であったらしい。縄で縛られたまま、開けられることもなく屋根裏の隅。思えば母は父の話をしたことがなかった。母も父の行く末を何も知らないのではないか・・・、小池はそうも言っていた。母は父に対して何らかの誤解をしているのだろうか。かくいう朱鷺子にしてみれば、誤解を抱けるほどに父のことを知らないまま。父の文字を初めて見る。高鳴ってくる胸もそのままに、朱鷺子は表紙をめくってみた。
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