隼人は町まで戻ると、普段は滅多に行くことのない居酒屋の暖簾を潜った。
夕暮れ迫る頃になって、居酒屋には人がにわかに集まりだしている。身なりがそれなりに小綺麗な袴姿の者から、職人風の男、その中にちらほら借長屋で見た顔も混じっていた。店の奥ではカチャカチャと食器を扱う音が聞こえている。
隼人は一度ぐるりと店内を見渡すと、店の一番奥、壁と柱に挟まれた最も寂しい席を選んで座った。寄ってきた店主に他の席を勧められたがそれを断り、冷やの燗を注文する。店内は相変わらずガヤガヤと騒がしい。
「はいよ、兄ちゃん」
ややあって店主が徳利と杯を隼人の前に差し出した。隼人は軽く会釈をしてそれを手に取ると、杯に少しだけ酒を注いだ。肘をついて、杯を口に持っていく。唇を少し湿らせたが、酒はほとんど飲みはしなかった。
隼人はあまり酒が得意ではなかった。
不意に少し離れた席から大きな笑い声が響いてきて、隼人はその方向を見遣った。馴染み客が店主と何か言葉を交わしては高らかに笑っている。辺りの者たちにもそれにつられて笑ったが、隼人はそれを捉えつつも表情を変えず、手元の杯の揺れる水面を見つめた。
「辻兄鷹を探してるってのはお前ぇかい?お若いの」
笑い声に紛れて聞こえた嗄れ声に、隼人は上目遣いに睨んだ。そこには古い編笠をかぶった、荒れた身なりの男が一人立っていた。
「ここ数日、俺をつけていたのはあんただな?」
「ほ、気づいたいたかい。こらおみそれした」
男は嘲るようにそう言うと、おもむろに編笠を外した。
隼人はその顔を目にして、眉根を僅かに動かす。
隼人よりも七寸ほど背が低く、体は垢で汚れて薄黒い。突き出た顎には白髪の混じる無精髭が生えて、且つ大きな鷲鼻。それだけでも十分忘れがたい顔立ちであったが、それらよりもその男をもっと強烈に印象づけているのは、その潰れた左目であった。何者かに斬られたのか、眼球のない瞼は半分取れかけて右目の瞬きの度に気味悪く揺れた。
「あんたは誰だ?俺に何の用だ?」
矢継ぎ早に隼人は尋ねた。男は気だるげにがたつく腰掛けを引き出し、隼人の目の前に座る。
「俺ぁ蓮角ってもんだ」
「・・・通り名か?」
「おおよ。人斬り蓮角、そう言えばここらじゃ震え上がる輩もいたと思ったがね」
「そうか、悪いが俺はこの辺りの生まれではないのでな」
男の名前に何の覚えもなかった隼人は、それを軽く聞き流す。
蓮角と名乗った男は、また隼人を嘲るように小さく舌打ちをした。
「まぁ、辻兄鷹を探してるって御仁にゃあ、蓮角なんてのは眼中にもねぇってこったな。くっくっく・・・」
蓮角は堪えきれず笑いを漏らす。諂っているというよりは、遠回しに隼人を挑発するような笑い。
隼人ただ何も言わず、じっと蓮角を睨みつける。
鼻をつくような臭い、醜い容姿・・・それ以上にこの他人を小馬鹿にした態度が、隼人に強い嫌悪感を抱かせていた。
「辻兄鷹を探してる理由なんて、野暮なことは聞かねぇよ。お前ぇ、名は?」
「・・・島田、隼人だ」
相手が先に名乗った以上、隼人も渋々答える。
「そうかい、島田の兄さん。ま、俺に気づいていたんなら無駄話はすめぇ」
蓮角は尋ねておきながら隼人の名などどうでも良さそうに、プラプラと左手を仰いだ。
店の中では、また別の笑いが起こって、蓮角と隼人との間の一瞬の沈黙を埋める。
「お前ぇ、奴さんのこと、どこまで掴んだね?」
蓮角は斜に構えて、のぞき込むように隼人に問う。口元には余裕を伺わせる歪んだ笑み。この男は心底、剣なしで人と付き合えるものではない。
「・・・この町にたどり着いたところまで、だ。それ以上のことはまだ知らない」
隼人もつっけんどんに言葉を返す。あまり感情を表に出そうとしない隼人だが、この時ばかりは不快感を露わにしていた。
しかし蓮角はまったく堪えない。むしろ隼人が不快に感じていることを、楽しんでいるかのようであった。
悪趣味な男め・・・、隼人は奥歯を噛みしめて、口の中だけで小さく呟く。
「ほう・・・そりゃあ難儀なこって。だがまぁ、奴さんも幽霊でもあるめぇし、必ず痕跡があるってもんだ」
「・・・何が言いたい?」
わざと奥歯に物が詰まったような言い方をする蓮角。反応を見ようとしているのなら、こちらとしても無駄話はすまい。隼人は両の目でさらに強く睨みつける。
「ふ・・・俺も人斬り・辻兄鷹を探してるのさ。この目を奪ったのは他でもない奴さんでな。人に言わせりゃ、俺は辻兄鷹の爪から逃げおおせた男らしいが、俺はそうは思わねぇ。俺が奴さんをし損ねたのさ。人斬りが後始末をつけないわけにもいくめぇ」
「・・・おかしな話だな」
蓮角の高飛車な物言いに、隼人は静かに一言返す。蓮角は余裕しゃくしゃくだったその眉間に、僅かにしわを寄せる。
「人斬りが何故人斬りと対峙したというんだ?あんたが用心棒であったならまだしも、本来なら人斬り同士が交わりあうことはなかったはずだ」
「なぁに、そんなもん。簡単なことじゃねぇか」
蓮角はまた鼻で笑い、体勢を変えた。
「奴さんが仕事してるところに、わざわざ俺が出向いてやったのよ。同じ人斬りとして、奴さんをのさばらせておくにはどうにも腹の虫が治まらなかったんでね。突出した人斬りなんてものぁ、一人いれば十分だからな」
そう言って、何を根拠にしているのか、蓮角は顎の無精髭を撫でながら自己陶酔に浸った。
だが、かといって目の前のこの不気味な男を軽んじるわけにはいかない。いかに底の浅そうな男であろうと、隼人がその名に覚えがなかろうと、この男が蓮角という通り名で人斬りであったことに違いはない。
一介の剣士と人斬り、その溝はあまりに深くて大きい。
辻兄鷹と対峙する前に、無益なことで痛手を負うわけにはいかないのだ。隼人はいちいち燗に障る蓮角の言葉に、そのままじっと耐えた。
今更蓮角が辻兄鷹の名を口にしようが関係あるまい。自分の目的とは対極にある、そう思いたかった。
「さてと、島田の兄さん、そこでだ」
隼人の期待を裏切って、蓮角は話を繋げる。
「見たとこ手詰まりのようだが、宛はあるのかい?」
「ないわけではない」
即答はするが裏付けはない。
本当のところでは、どこか朱鷺子やあの二人から情報があることを望まない自分がいる。
これは自分の仇討ちだ。自力で捜し当てて仇を討つこと、それが理想であった。
「ふん、まぁだが宛は有望な方がいいだろう?どうだ、俺と結託する気はねぇかい?」
「・・・どういう意味だ?」
「俺には奴さんの足取りを追うのに有益なものがあるってこった。俺ぁ幕末の頃、奴さんとは違って維新派の人斬りだったんでね。今のお偉方の中にゃあ、昔世話してやった輩も多いのよ。俺がこの町にたどり着いたのも、何を隠そう、そこから得た情報でな。まだ探らせてんのさ。追々新たな情報がでてくる。それを共有しねぇかってんだ」
「・・・代償は?代わりに何をよこせと?」
「おいおい、野暮なことは言うめぇ。俺たちゃ目的が同じ、いわば同志じゃねぇか。お互い足を引っ張りあうことはよさねぇかい?」
そう言って、蓮角は「どうだどうだ」と言葉を重ねる代わりに、上目遣いにジロジロと隼人を見遣った。
確かに、蓮角の言うことが本当で、政府が辻兄鷹の行方を探しているというのなら、これ以上の出所はない。それなら今すぐにでも朱鷺子たちをこの件から遠ざけることができる上に、有力な情報が入ってくる。最良の手だてのように思えた。
しかし・・・
「・・・やめておく」
隼人は呟くように蓮角の申し出を拒むと、注文した酒の残った物もそのままに、席を立ち上がった。そして足早にその場を後にする。
朱鷺子の存在が何もかもを明るく前向きにするように、蓮角の存在は何をも受け入れがたいものに感じさせた。奴と取り引きすべきではない・・・、そう本能が応えたのだった。
「おいおい、待ちなって、兄さん」
蓮角はよろめくよう立ち上がると、足取りもかったるく隼人について店を出た。
「何もそう困難な道を選ぶこともあるめぇよ。据え膳は食う、横に御馳走がぶらさがってりゃ取って食う、それにこしたことはないだろうに」
「それが罠ということもある。悪いが話には乗れない」
「ははっ、若い割には用心深いんだな」
蓮角はまた薄ら笑いをする。
まったくこの男は、言葉を発する度に人を嘲ることを忘れない。
隼人は自分をつけていた人物の正体を探るために、蓮角をあぶり出しはしたが、出会ってしまったことに関してはひどく後悔していた。一刻も早くこの気味の悪い男から離れようと、足早に歩いていく。
「兄さん、それじゃもう一つ聞いていけや」
少しだけ声音の変わった蓮角の言葉に、隼人は訝しげに振り返った。蓮角は人々の奇異の目を避けるように、深く編笠を被りなおして一拍置く。
大通りに出てきた二人の男の間を、数人を町民が行き交う。外は夕焼け迫る日暮れ時。夕餉の匂いが辺りを満たして、人の心をいやが上にも和ませようとしている。
しかしそんな中にあって、この二人だけが異質にも、緊迫の中に身を置いていた。
「仇討ちだったら、早いとこ殺っときな」
重みにある言葉であった。人を嘲ていた時の、軽々しさは微塵もない。
「・・・どういう意味だ?」
「さぁてねぇ、お偉方がそう言ってたのさ」
意味深にニヤリと黄ばんだ歯を見せて、蓮角は隼人とは逆の方向へと歩いていく。隼人はその背中をじっと睨むようにしてから、少し目線をあげて空を見遣った。
夕焼けの真っ赤な空には、漆黒の暗雲が浮かんでいた。
≫TOPへ