町外れにある剣術道場から、わざわざ小池市三郎が呉服屋である門倉家にくることなど、大変に珍しいことであった。

彼は剣に関してはこの町で比肩する者がいないほどの実力者であったが、その分衣服に関してはまったくの無頓着で、伴侶に先立たれてからはより一層構わぬものになっていたのだった。

「あら、市三郎さんじゃないの」

 すかさず店に出ていた節子が見つけて声をかける。小池は呉服屋の店内で一人右往左往していた足を止めて、天の救いとばかりに節子へと歩み寄った。

彼は今まで着物を自分で買ったことがなく、また嫁いでいった娘にも一度として買い与えたことがなかった。それは小池家では妻のなすことであったのだ。剣術道場での作法はこの町の誰よりも厳しく身に付いているのに、場所を呉服屋に変えた途端にどのようにしたらよいのか分からなくなってしまう。小池市三郎とはそんな不器用な一面も持った男であった。

「珍しいわねぇ、市三郎さんがうちの店に来るなんて。何かお目当てのものでもありまして?」

「いや、そういう訳ではないのだが・・・」

 小池はばつの悪そうに声を潜めて、それから辺りの買い物客の動向をぐるりと見遣ってから、もう一度呟いた。

「お朱鷺ちゃんは今いなさるかね?」

「朱鷺子ですか?えぇ、おりますけど・・・、まさかあの子、何かしでかしたのでは・・・?!」

「いやぁ、そうじゃありゃせん。ただちょいと話をしたいことがありましてな。お嬢さんと裏の縁側、今しばらくお借りできませんか?」

「え、えぇ・・・、結構ですよ。お朱鷺、お朱鷺!」

 母に呼ばれ、朱鷺子は家の奥から「はぁい」と返事をして出てきた。そして母のそばに小池がいるのを見受けると、たすき掛けにしていた紐を素早く解いて慌てて会釈をした。

「こんにちは、お朱鷺ちゃん」

「あ、こんにちは、市三郎さん」

 朱鷺子は挨拶にあわせて、もう一度ぺこんと頭を下げる。

小池は父と兄の通っていた剣術道場の道場主、朱鷺子も彼のことは幼い頃から知っていた。しかし幕末に剣術道場との接点を亡くしてからは、小池にしてみてもそれまでの着物の見立て役であった妻を亡くしてからは、お互いにほとんど会うことも少なくなっていた。

それが何故突然に小池が門倉家を訪ねてきたのか。しかも、そればかりか何故朱鷺子を指名したのか。心に隼人の探し人のことがあるからか、朱鷺子の心臓はドクドクと不穏に高鳴っていた。

「久しく見ないうちにすっかり大きくなって、お朱鷺ちゃん」

「え、ええ。市三郎さんは昔からお変わりなく。むしろ年を経るごとに若返っていくみたい」

「そりゃあ誉めすぎだ」

 門倉家の店側から裏へと回る途中で、市三郎は高らかに笑った。

だが朱鷺子の言葉は、あながちお世辞というわけでもない。確かに人は年をとると、体の成長は緩やかにはなるが、それを抜きにしても市三郎は同世代の男性よりも幾分若々しかった。商人の多いこの町で、数少ない剣客であることが、それにまた拍車をかけているのだろう。彼の年齢を推し量るものは、白髪の混じる頭髪と掌にできたいくつもの堅い豆であった。

 

 

 「さて・・・」

 裏庭に面した縁側までやってきて、市三郎は一息つくように腰掛けた。そしてその隣に座るよう朱鷺子を促す。

「お朱鷺ちゃん、最近とある若者によく会っているそうだね」

「・・・え?」

 唐突に核心を突かれ、朱鷺子は思わず体を強ばらせた。

隼人と会っていることに後ろめたいことなど何もないはずなのに、何故だか他人から隼人の話をされると、ドクンと大きく鳴る胸を抑えられずにはいられなかった。

「そう身構えることはない。何も町中に噂を広めたり、君の母上に告げ口しようだなんてことは微塵も思っとらん。だから、正直に答えてくれんかね?とある剣士の若者と会っている、そうだね?」

 声を潜ませて、諭すように市三郎は尋ねた。

「・・・は、はい」

 その柔和な物言いに、恐る恐る朱鷺子は頷いた。

目線は膝の上で組み合わせた拳の親指。朱鷺子には困ったときに自分の親指を見つめる癖があった。

「けれど・・・何故市三郎さんがあの人のことをご存じなの?私たちが会っているのを、市三郎さんもご覧に・・・?」

「いいや、それはちょいと小耳に挟んだにすぎない。だがあの若者に関しては、少し前にうちの道場に来たことがあってな」

「隼人様が?」

 思わず隼人の名を口走って、朱鷺子は「あっ」と口を押さえた。しかし市三郎は相変わらず柔和にほほえんで頷くだけ。

「人を捜していると言うておった。この町から江戸の命で西に向かった者がいるかどうかとな」

 £メ兄鷹のことだわ・・・と浮かんだことを、心に留めて朱鷺子は頷き返した。潜めた眉は八の字を描いて、朱鷺子の不安を露わにしている。

「だが、うちの道場にいた者で、そのような話は聞いたことがない。そう話はしたんだが、どうにも放っておくに忍びなくてな、江戸城中指南役に取り立てられた者ならいたと付け加えておいたのだ。その者が果たして西に向かったのかどうかは、誰も知らぬところではあるのだが・・・」

 小池の言葉に、朱鷺子は思わず見開いた。

≠烽オやそれは・・・と、そう思った。姿を消した鷹の影、そうではなかろうかと。

「あの・・・市三郎さん、その指南役になった人っていうのは・・・?」

 朱鷺子は逸る胸を抑えて、おずおずと尋ねた。すると小池は驚いたように朱鷺子を見返した。

「おや、何を言ってるんだね?その人こそ門倉小七さん、あんたのお父上じゃないか」

「え・・・?父が、指南役?」

 それは朱鷺子にとってまったくの初耳であった。

幼い頃にどこか余所へ行ってしまったまま、とうとう戻らなかった父。その間に兄が亡くなったこともあり、門倉家の中で父・小七の存在はうやむやになっていたのだった。

無論朱鷺子が父親のことを、知らないままでいいと思っていたわけではない。聞けなかったのだ。唯一その行く末をしているであろう母親に、父親がなぜ家業を継がずに長く家を空けているのかを尋ねるには、朱鷺子には相当難しいことだったのだ。

「知らなかったのかね?お朱鷺ちゃん」

「だって、私てっきり父は、その・・・放浪しているのだと。いえ、あの・・・言い方が悪いかもしれませんが、蒸発したのではと思っていたんです。母はただ・・・父は用事があって町を離れたんだって・・・」

「そうさなぁ・・・ひょっとしたら節子さんも、本当のところは知らないのやもしれん。小七さんは無口であったし、あまり自分のことを話したがらなかったからな」

 小池は瞳を閉じて、両腕を組んで袂に入れ込んだ。そして納得するように数度頷く。

彼が今胸中に思い描いているのは自分の父親だというのに、朱鷺子にはまったくそのような実感がわいてこなかった。

無理もない。父・小七の顔を、朱鷺子にはもはや思い出すことすらできなかった。

記憶の中で霞がかったように朧気な父の姿。それを補うように、生前の兄の姿が重複する。父親不在の門倉家の家長代理であった兄。背が高く、切れ長の瞳で、黒髪の髷。兄の姿はそのまま父に反映されていたのだった。

「ともかく、あの若者の探し人に直接の関連はなくとも、小七さんの話をしたことは教えておかんとと思ったのでな」

 ややあって、小池はもう一度朱鷺子に向き直って言った。

「父は・・・父は江戸に行った後、どうなったんです?」

 朱鷺子は視線を前方やや下寄りに、どこともなく合わせたままほつりと呟いて尋ねる。

父は病死だった・・・朱鷺子はそれしか知らない。

「そうさなぁ、実はわしも小七さんのことは聞き及んでおらんのだ。だから小七さんがあの若者の言葉通り、西に行っていたかどうかも、本当のところでは定かではない。ただ明治を迎える前に、流行病に体を壊して亡くなってしまってな、それが人に染つるものだというので、骸もとうとう帰ってこんかったのだ。今はどこに眠るのか・・・、節子さんの心情は計りかねんなぁ」

 そしてふわりと風が吹く。

庭の木がざわざわとにわかに音を立てたが、朱鷺子にはどれがどこか遠くに聞こえていた。

 

 

 「お朱鷺ちゃん、それともう一つあるんだが・・・」

 木々のざわめきが落ち着いてから、小池はもう一度口を開く。

「君も人探しをしていると聞いた」

 そう言われて、朱鷺子はますます眉を潜めて、今にも泣きそうな顔をした。

その言葉を隼人を知らない者が口にしたのなら、情報が舞い込んでくる兆しともとっただろうが、他ならぬ小池に言われて、朱鷺子は動悸が激しくなるばかりであった。

隼人が探しているのは人斬り辻兄鷹、かつてそれを答えたのは小池、その人物こそ門倉小七。真実の一端を察しているわけではなかった。ただ不穏な警鐘が、心中で鳴り響いてやまない。

「あの・・・でも・・・、でも私・・・」

 隼人は悪い輩などではない。人斬り辻兄鷹を探すのことにも、仇討ちというまっとうな理由がある。あの時隼人の人探しを手伝うと言ったのは、偏に彼の役に立ちたかった、それだけだった。

そんな気持ちを否定されるのが怖くて、朱鷺子はそれ以上言葉にすることができなかった。

「・・・気持ちはよく分かるよ、お朱鷺ちゃん」

 小池はゆっくりと諭すように続ける。

「わしもあの若者が到底不逞な輩だとは思えない。礼儀正しく、またまっすぐな心根の持ち主だ。だからこそ小七さんの話をしたわけだが・・・、しかしお朱鷺ちゃん。たとえどんな理由があったとしても、剣客の人探しの片棒を担ぐのには賛同できない。わしのような同じ剣に生きる者が、話をするのとは訳が違う。君は呉服屋の娘さんだ。わざわざ危うきに近づくものじゃない」

 そう言って、小池はじっと朱鷺子を見つめた。朱鷺子がそれに頷くまでは、おそらく逸らすことはないであろうその瞳。

朱鷺子はそれを受けながら、唇をかみしめて俯いた。

隼人とは出会ってまだ一月と経っていない。今二人を結びつけている一番のものは、まさしく辻兄鷹探しであった。無論それだけが唯一の絆であったわけではないが、まだ数少ない繋がりの、その一つを失うことが朱鷺子の承諾を鈍らせていた。

「よく考えておくれ」

 小池はそういって朱鷺子の肩に手を置くと、そのまま立ち上がって裏口から出ていった。朱鷺子はまるで縁側にうちつけられたように、その場から動くことができなかった。

 

 

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