朱鷺子は隼人の口数がいつも以上に少ない原因が、先日の隻眼の男にあることを知らないままであった。そうであったから、朱鷺子はてっきりあまり有力な情報を得られなかったことに、隼人が半ば呆れていたのではないかと勘ぐっていたのだった。

お堂さんの入り口に立って、今日は藍色の紬の着物の袖を、何度見遣ったことだろう。季節外れの冷たい風が、背中にゾクリと鳥肌を立たせる。梅雨に向かっていく空は、段々と曇っていることの方が多くなり、朱鷺子の好きな青空はしばらく見なくなった。

こんな心持ちの中、せめて空が青くあったならどんなにか良かったことだろう。心内では昨日の小池の言葉が何度も繰り返されている。こうして会うことですら、今では後ろめたさを感じてしまっていた。そんな自分が嫌になる。泣き出しそうな暗雲に、朱鷺子までもが泣きたい思いでいっぱいになった。

 

 「どうかしたのか?朱鷺子殿」

 そんな朱鷺子の心情を察してか、不意に隼人が呟くように声をかけた。朱鷺子は僅かにビクついて、それから背の高い隼人を見遣る。

「い、いいえ。何でもないんです。・・・・・・ごめんなさい」

「・・・何故謝る?」

 朱鷺子が躊躇いがちに付け加えた最後の謝罪の言葉に、隼人はゆっくりと聞き返した。棘のある言い方にならないよう、柔和に言葉を発しているのが分かる。そして朱鷺子を見つめるその瞳、隼人のそんな優しさを十分に汲み取ってから、朱鷺子はほつりと言葉を続けた。

「私はまだ・・・あの人のことを何も掴めていませんから・・・、それに・・・」

 それにこんな心持ちでいることに、深い罪悪感を感じていた。

命を助けてくれたこの人を、出会ってからずっと信頼してきたこの人を、今更後ろめたく思うなんて。朱鷺子はその思いを口にすることすらできず、言葉につまった。

ああ・・・せめて、素直に思いを伝えて詫びることができたなら・・・

「・・・そのことなら、もう良いのだ」

「え?」

 ふいっと目線を逸らして隼人は呟いた。朱鷺子は弾かれたようにして思わず彼を見遣る。

何を思ってそう口にしたのか、背の高い隼人に向こうを向かれては、その表情を見ることはできない。

「あの・・・もう良いというのは・・・?」

 怖ず怖ずと尋ねると、遠くどこともない一点を見つめていた隼人が、ゆっくりとした瞬きとともに再びこちらに振り返った。

「俺の軽はずみな話で手間をとらせてすまなかった。これ以上朱鷺子殿が、奴のことを探す必要はない」

「それは・・・何か分かったということなのですか?」

 朱鷺子は今すぐにも隼人にすがりつきたい衝動を抑えて聞き返した。手先が冷たくなって、僅かにブルブルと震えている。

 隼人は暫くそれに答えなかった。

 

 

何か分かったのかと言われれば、否、まだ何一つ分かってなどいない。ただ状況が急に変わり始めた。ただでさえ幕末の人斬りを探すという綱渡りのような危うさに、今は不穏な隻眼の男が加わってしまった。

奴は危険すぎる。蓮角という名を知らないまでも、纏う雰囲気が過去の遍歴を示していた。一体どれだけ人を斬って、鮮血を浴びてきたというのだろう。血の匂いは消えても、死の匂いは消えない。そう、奴の鼻のつくような臭いには、そんな要素も含まれていたのだ。

そんな男を朱鷺子に会わせるわけにはいかない。奴に出くわすのは自分だけでいい。隼人にも蓮角にも共通しているのが£メ兄鷹を探すということならば、その輪の中から朱鷺子を出してやらねばなるまい。それがこの数日隼人が考え出した最優先事項であった。

「他に宛が出来た」

 隼人は意識的につっけんどんに言い切った。朱鷺子の心情を汲んではいたが、彼女の命には代えられない。

「そこからの方が有力な情報を得やすいのだ。人探しにあまり時間はかけたくないのでな」

 その物言いが、隼人の心さえどれだけ傷つけたことだろう。まして朱鷺子の心は計りかねない。今すぐ前言を撤回して、自分の周りに不穏な要因があることを告げてあげたい。

隼人は朱鷺子を見遣ることさえ躊躇った。

 朱鷺子はその傍らで、隼人の言葉に顎が胸につくまで深く俯いていた。自分の無力さと、それとどこか安心した自分に急激に嫌気がさしたのだった。

じわりと目元に涙が滲む。ただ真っ直ぐに隼人を想っていたかった。それが今は曲折して複雑な影を心に落としている。あれほど心地よかった心のしこりも、もはや鉛の固まりのようで、ズンと重くのしかかっては心を下へ下へと引っ張るのだった。

「そう・・・ですね・・・」

 口の中はカラカラに渇いて、喉は押しつぶされるように痛む。朱鷺子は声を絞り出すように呟いた。こんなに泣き出しそうな声では、隼人が気の毒に思うだろうと分かっていたけれど・・・。

 朱鷺子は俯いたまま息を長く吐き出すと、大きく吸い込みながら顔を上げた。そして顔が空に向かい合ってから、ゆっくりと目を開けた。滲んでいた涙を、もう一度瞳の奥に戻すように何度か瞬きをする。

嗚呼・・・曇天の空の、なんと皮肉なことかな。今ひとたび、日の光が雲の間に見えればよいのに。

「・・・分かりましたわ」

 痛みが喉の奥まで流れ込んでいくのを待って、朱鷺子はもう一度呟いた。

「隼人様のお邪魔になるわけにはいきませんもの。私・・・少しおとなしくしてますわ。暫く・・・」

 暫く・・・そう、この重い鉛の固まりが、どこか遠くへ消え去るまで。

「・・・朱鷺子殿」

「いいんです。私、なんだか段々とお役に立てる自信が薄れてしまって・・・。本当にごめんなさい。どうかお気になさらないで」

 朱鷺子は早口にそう言い切ると、弱々しいながらも精一杯の笑みを浮かべて、隼人の同意を求めた。けれど隼人がもう一言言葉をかける前に、不意に表情がくしゃっと崩れると、それを隠すように踵を返して走り出した。

 

ああ、ああ・・・どうして素直に言えなかったのだろう。この心内を。

素直なのが取り柄で、元気なのが取り柄で、明るくいるのが取り柄で・・・、そう言われていたのに。

 

 朱鷺子は足を踏み出す度に、再び溢れてくる涙を拭いながら走っていった。胸がズキズキと痛んで、いつも以上に息を切らせながら、一度も振り返ることはなかった。

隼人はそんな彼女の背中から目線を逸らすことが出来なかった。

 

 

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