「こんにちは、杉並の奥様」
朱鷺子は町のほぼ中心にある金物屋に顔を覗かせた。
隼人から話を聞いたその日のうちから、朱鷺子は町の重鎮たちに辻兄鷹らしき人物のことを尋ねて回っていた。
一番古くからある旅籠の女将から、建具屋、酒屋と業種を問わずに尋ねたが、それらしき人物のことは何一つ出てはこなかった。店番の合間を縫って、また隼人と会う時間を削るようにして朱鷺子は毎日尋ねて歩いた。
そしてやはり行き着いたのはこの町を最もよく知る杉並金物店の奥方。本来であれば一番に聞くべきところを、以前隼人と会っているところを見ていた杉並の奥方のところへ足を向けるのは、なかなかに至難の業であった。
「あら、お朱鷺ちゃん、いいところに来たわ」
開口一番、高らかに手招きされ、朱鷺子は内心ドキリとした。
杉並の奥方は店の奥で何に向き合っていたのか、細身の体にお馴染みの深緑の着物を着て、たすき掛けにした腕を何回も振る。名は体に比例するものなのか、杉の名にふさわしく、奥方は痩身の背筋を糸で吊っているかのようにピンと伸ばしている。
「お醤油を持っていって頂戴な。親戚の醸造屋から一樽届いたのよ。あの人ったら出来の良いときはいつもそう。自分の腕を見せたくて仕方がないのよ。こんなに使いきれないって言って聞かせてももう駄目ね。そろそろ隠居したのかと思っていたのに、生涯現役を通すつもりなんだわ」
朱鷺子が怖ず怖ずと金物店の奥まで寄っていくと、杉並の奥方は聞いてもいないことを流暢にしゃべり続け、目の前にドンと置かれた樽の蓋を叩いた。隼人のことはまるで口にする様子はない。常日頃たくさんの情報を仕入れている奥方にとって、新しい知らせ以外は掘り返すほどもないことなのかもしれない。
朱鷺子は内心ホッとしたような、呆気にとられたような顔をして、話半分に奥方に頷く。
「一升もあれば十分かしらね?手桶に汲んであげるから、お母様によろしく持っていって、ね」
「あ、あの・・・奥様!」
あれよあれよと話を一方的に進めていく奥方の言葉の切れ目を狙って、朱鷺子は口火を切った。
「あら、何かしら?あ、そういえば何か用だった?」
奥方は何も悪びれることなく、あっけらかんと聞き返した。
「奥様、私今人を探しておりまして・・・。ご存じでしたら教えていただけませんか?」
「あらぁ、何でも聞いて頂戴」
途端に奥方は目を輝かせて朱鷺子に向き直る。奥方は自分の知っている情報を、誰かに頼られるのが好きなのだ。自分の腕を見せたいというのなら、醸造屋の主人と杉並の奥方は間違いなく血縁者といえる。
「この町の生まれなのか、ただ立ち寄ったかもしれないのかが曖昧なのですが、幕末の頃の剣客を探しているのです。上背があまりなく、小柄な体つきだったらしいのですが、とても目つきの鋭い、それでいて滅法強い男性・・・」
「小柄で目つきの鋭い、強い男・・・?」
奥方はこめかみを人差し指でトントンと叩きながら、目線を上に向けて思考を巡らした。
その目線の先に天井近くの蜘蛛の巣を捉えて、ああ・・・今年の大掃除には忘れずに取らないと・・・と寄り道はしたが、彼女の頭の中では朱鷺子の問いに記憶を掘り起こしていた。
「そうねぇ、何か思い出しそうな気もするのだけど・・・」
さすがは杉並の奥方というべきか、今までの数人とは異なり£mらないと即答しない。
「何でしょう?!どのよう方ですか?」
朱鷺子は焦る気持ちについ身を乗り出して質問を重ねたが、奥方はこめかみを押さえて俯く。
「それがねぇ、どうにも最後まで思い出せなくて・・・。でも何か覚えがあるんだよ。誰だったかねぇ、どこで知ったんだか・・・」
奥方はさらに深く俯いて唸った。その閉じた瞼に何か浮かぶのか・・・、朱鷺子は固唾を飲んで奥方を見遣る。
「うーん・・・駄目だねぇ、どうにも思い出せないよ。まったく、年は取りたくないものだわ」
ややあって奥方は顔を上げた。膨らんでいた朱鷺子の期待は、小さなため息とともに萎んでいく。
「すまないねぇ、でもその内、何とはなしに思い出せると思うよ。その時はすぐに教えてあげるから。さ、ほら、それより醤油を持っていっておくれ。今分けてあげるからさ」
奥方はすぐに気持ちを切り替えて、せかせかと柄杓と手桶を探しに店の中を歩きだした。その間に朱鷺子は唇を噛みしめた。
歯がゆい、とても心がむずがゆい。
今すぐに得たいものが、目の前を霧散して掴めないでいるのは、何とも心をかき乱す。
隼人は辻兄鷹を探している間中、ずっとこのような心持ちだったのだろうか。それを少しでも緩和できればと思っていたのに、むしろ自分自身の方が同じ思いをすることになろうとは。
£メ兄鷹は姿を見せない、人斬りの鑑のような男、隼人のその言葉を、朱鷺子はこの数日で嫌と言うほど思い知ることになったのだった。
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