「そう…だったのですね」
隼人の吐息に習うように、朱鷺子もまたため息混じりに呟いた。膝の上で組んだ両手を見つめたまま。
隼人は額にあてがっていた拳を下げると、ゆっくりと朱鷺子に目線を合わせた。
横顔からでも分かる、彼女は明らかに動揺している。組んだ両手の親指がすり合わせるように動いて、次の言葉を探している。
「朱鷺子殿、俺は…」
この話をした時は、別れる時だと思っていた。
明治の青空の下、安寧な日々を謳歌する朱鷺子に、未だ幕末の恨みを引きずったままの自分は似合わない。尤も、動乱の時代に家族を奪われて、尚争いごとに身を投じようとする自分を見限るかもしれないと感じていた。
仇討ちと言えば聞こえは良いが、詰まるところは人の死を願うものに過ぎない。朱鷺子はきっと話を切り上げる言葉を探しているに違いない、と。
だが、朱鷺子は意外な言葉を続けた。
「では、この町のどこかに、まだ辻兄鷹とやらの情報が眠っているやもしれないと、そういうことですのね」
朱鷺子はそうはっきり言いきってから、隼人へ振りかえた。一点の曇りもない、相変わらず天真爛漫さを失わないその表情。隼人の方が逆に呆気にとられる。
「あ、ああ…だが…」
「でしたら私、思い当たる人を当たってみますわ。大丈夫、この町には物知りが多くおりますの。それに商業の町ですから、界隈を見ている人も沢山いますわ。誰かの目に止まっていたかもしれません」
朱鷺子は名案を思いついたといわんばかりにいそいそと立ち上がって、そして町の方へ戻ろうと踵を返した。いつもと変わらない天真爛漫な振る舞いと、それに付随するかのようなせっかちな性格。隼人の仇討ちの真相を聞いたところで、朱鷺子はその明るさをまったく失うことはなかった。
「しかし、朱鷺子殿…!」
隼人はその小さな背中を慌てて止める。下手に首を突っ込ませて、危ない目には遭わせたくはない。
だが、そんな心配などどこ吹く風、朱鷺子はきょとんとした顔で振り返る。
「俺は仇討ちを狙うものだ。常に不穏なものを腹に抱えている。朱鷺子殿と俺は…」
まったく異なって相入れぬ水火のごとき性質だ…、そう言いかける直前に、朱鷺子は体ごと向き直って更にあっけらかんとした表情を浮かべる。
「隼人様には、その辻兄鷹のほかにも仇討ちの相手がおりますの?」
「い、いいや…?」
「では辻兄鷹の一件が済めば、隼人様も穏やかな腹持ちになるのですね」
そうはっきりと言い切って、朱鷺子はにっこりと笑った。
同じことに対峙しておきながら、隼人とはまったく違った考え方をする朱鷺子。それは常に前向きなもので、まるで隼人の背を押すかのように思えた。
「ありがとうございます、隼人様、話してくださって。何か分かったことがありましたら、必ずご連絡差し上げますわ」
朱鷺子は軽く会釈をすると、そのまま来た道を足早に戻っていった。おそらく聞き出すのにうってつけの人物をすでに知っていて、心急いているのだろう。
まったく、慌ただしくやってきては、沈みがちだった隼人の周りの空気をかき乱していった。最終的に呆気にとられたのは、話をした隼人の方であった。
隼人はただ小さくなっていく朱鷺子の背中を見つめていた。
「おかしな娘ですな、旦那」
ややあって、茶屋の陰から辰と六助が再び寄ってくる。
「ああ、まったく」
それは本来なら呆れた言い回しになるはずの言葉であったが、思いがけずにとても柔らかな声で口をついていた。隼人もそれに気づいてか、言い終えてから一拍おいて小さくため息を入れる。
「ところで、まさか旦那の探し人が奴だったとは、思いもしやせんでしたよ」
辰がそう言うと、傍らの六助も頷いた。
「お前たちも奴を知っているのか?」
「そら知っておりまさぁ。あっしらみたいな輩でも、あの時代に刀を持っていた者で、辻兄鷹を知らん奴はおらんでしょう」
「居場所や生まれに心当たりは?」
「いや…知っているとは言っても、世に聞こえている部分だけでさぁ。奴の正体や居場所についちゃあ、お手上げよ」
「やはり…か」
その実体は誰も知らない。
明治の青空の下、未だ闇の中にいる人斬り・辻兄鷹。
奴こそ本物の、人斬りの鑑のような男。
「しかし旦那、本当に奴に仇討ちをする気ですかい?」
「どういう意味だ?」
辰が声を潜めて訪ねたことに、隼人はじろりと睨みを含めて聞き返す。
「幕末に辻兄鷹という人斬りがどんなもんだったか、噂には聞いておりやす。対峙した奴ぁ、皆オダブツだ。旦那が強いのは承知の上だが、あれと戦りあうにゃあ、ちと荷が重すぎやしやせんかい?」
辰と六助は怪訝そうに隼人を見遣った。
「そんなことは百も承知だ。だが、だからといって今更退くわけにはいかん」
隼人は一種の癖のように、再び片方の拳を額にあてがう。
そうだ・・・今更仇討ちを棄てるわけにはいかない。あの夜明けから、幕末から、ただ偏に辻兄鷹へ仇討つために生きてきた。奴に斬り殺された父と、それを悲しむあまりに病死した母、バラバラに生き分かれていった兄弟たち・・・、奴によって奪われたものは、今仇討ちを止めるにはあまりにも見合わないほどに多い。
「…委細分かりやした。あの娘が表を探るなら、あっしらは裏を探りやしょう」
「裏?」
「あっしらにゃ、あっしらだけの繋がりがあるもんでさ。追い剥ぎに泥棒…、あまり聞こえのいい連中じゃありゃせんがね」
六助はイタズラ坊主のように、並びの悪い歯を見せて笑った。辰もそれを了解したと言わんばかりに、六助に肩をぶつけ合った。
「…あまり危ないことには踏み入れるな。お前たちを巻き込みたくはない」
「なぁに、蛇の道は蛇に聞けってんでさ。マズくなったら俺たちは逃げまさぁ。旦那はあの娘の方を気にかけてくだせぇ」
辰と六助はそれだけを言って人探しを請け負うと、そのまま町の北西に見える山際へと向かっていった。今まで隼人の言ったことのない方向、蛇の道は蛇。
朱鷺子は朱鷺子で、町中の知り合いの年長者に聞いて回ることだろう。
これまでは聞き得なかった情報が、手元に転がり込んでくることは確実だ。だが隼人の心中は、それとは裏腹に穏やかではなかった。情報を得られることへの高揚と、朱鷺子とあの二人への心配、そして話してよかったのかという疑心。
胸の鼓動は不穏に大きく、指先は冷たくしびれるような感覚さえ覚えた。隼人はなかなか額に当てた拳を下げることができなかった。
するとややあって、もう一人茶屋を後にする者がいた。相変わらずボロボロに擦り切れた編笠、汚れた着物。
ゆらりと気だるげに立ち上がり、そしてまた「ふっ」と小さく含み笑いをした。奴もまた、隼人の行ったことのない方向へと歩いていき、その背中は再び見えなくなったのだった。
≫TOPへ