隼人は暫しの沈黙の後、未だ額に拳を当てたまま目を開き、わずかに動かした目線で茶屋の影を見遣った。辰と六助の影が、少しだけ覗く。朱鷺子もその目線に気が付いて、茶屋の横を見ようとしたが、何かを目に捉える前に隼人がほつりと呟いた。
「尋ね人がある」
「え?」
唐突な言葉だったために、朱鷺子は一度聞き返した後、一拍置いてからゆっくりと隼人の隣に腰掛けた。膝の上できっちりと両手を重ねて、再び隼人の横顔を凝視する。
「尋ね人…ですか?」
「ああ、或いはこの町に身を潜めているのではないかと睨んで、ここへきた」
朱鷺子は囁くような隼人の言葉に、前傾に丸めていた背を一度伸ばしてから、わずかに隼人の側へ近寄った。そしてそれは茶屋の建物の影でも同じこと。隼人が二人に向けている言葉を聞き漏らすまいと、建物の際までにじりよる。
隼人は息を少し吐いてから続ける。
「幕末に人斬りだった男だ。名を辻兄鷹(つじせう)という」
「辻兄鷹?」
「無論本名ではない。通り名だった。小柄な体格であったが、鷹の目のように鋭い目つきだったために、兄鷹(せう)と異名をとった。更に夜の辻に潜むことから、その頭に辻とついて、いつしか辻兄鷹と呼ばれるようになったのだ。夜に飛ぶ鳥に出会ったら、迷うことなく逃げろ…、それが合言葉だった」
隼人は遠く茶屋の前に広がる川縁の、どこともいえない一点を見つめたまま言葉を続けた。
初夏の爽やかな風が人々の間をすりぬける。
辺りは茶屋を訪れた多くの人の話し声で、ガヤガヤと声が入り乱れていたにも関わらず、朱鷺子の耳にはそれがどこか遠いもののように聞こえていた。一切の雑音が遮断され、ただ偏に隼人の横顔を見つめる。
いつもと同じ、穏やかな雰囲気。
いつもと違う、その無表情。
「奴は非常に腕の立つ剣客だった。いや、それ以上に一流の人斬りだった。狙った獲物と自分の正体を見聞きした相手を仕損じることはなく、その代わりに無関係な者には決してその姿を見せることはしなかった」
そうやって無駄な殺生を避けていれば、少なからず自分に降り注ぐ恨み辛みを減らすことになる。だからこそその正体は誰一人知るところではなかったのだった。奴の爪から生き残ったのは、いつの時も正体を知らぬままの者ばかり。当時も何人か、その雷名にあやかろうという偽者が現れたが、結局本当の辻兄鷹は幕末が過ぎてなお、爪を隠し続けた。
今では本当にそんな人斬りがいたのかどうかと、疑問符をあげる情報も聞き及ぶ。
いや、それでも忘れることはできないのだ。あの夜に見た鋭い眼光と、橋桁の下の光景を。
隼人は眉間にわずかに皺を寄せて瞼を閉じた。隼人の心を締め付けて離さない記憶。言葉を続けるごとに鮮明に浮かんでくる。
「隼人様…?」
朱鷺子はそんな彼を気遣って声をかけた。いつもは無口な隼人が、今は驚くほどに多弁になっている。しかも苦痛を浮かべた表情で。
「…奴は俺の仇なのだ」
隼人は絞り出すように呟く。
朱鷺子は今一度口をつぐんで、のぞき込むように彼を見遣った。そして茶屋の建物の陰では、やはり同じように辰と六助が耳をそばだてる。
「俺の父は、奴に殺された」
組み合わせた拳を額にあてがい、隼人は少し俯く。瞼の向こうでは、チカチカとあの夜のことが蘇る。
朱鷺子は目を見開いて固唾を飲み込んだ。
彼の表情を見ているだけで分かる。彼は今まで誰にも話してこなかったことを、ようやっと自分に話しているのだと。
それを思うと、どうしても口を挟むことができなかった。
「父もまた剣客で、幕末は多くの志士の用心棒をしていた。だが俺が元服し、初めて父の仕事に同行した夜、奴に…辻兄鷹に出くわした。父は俺に志士を連れ帰るよう言いつけてその場に残り、そして殺されたのだ」
川から引き上げた時の、驚くほどに白い肌と、鮮やかすぎる血染めの着物。母はそんな物言わぬ父にすがって泣いていた。自分はただ呆然と、その様子を見ているしかなかった。
父は、幼い頃から目指すべき背中であった。
生まれてこの方、その顔立ちよりも大きな背中の方が記憶に強く残っている。剣を握り相手に立ち向かっていく。俺はそんな父のようになりたかった。或いは父の背中を追い続けていけば、いつかは近づけるのだと、そう信じていた。
それがある日突然に奪われてしまった。呆然とした心の中に沸き上がってきたのは、悲しみではなく憎しみだった。
辻兄鷹・・・忘れるものか、刹那に見えたあの眼光。
必ず探し出す、そして父の仇を討つのだと。
「奴に出くわしたのは京都に近い場所であったが、話し言葉に西の地方の訛りが一切なかった。加えて左幕派、江戸の方に縁があるのだと考えて、東海道を訪ねてきた。そしてその足跡が途絶えたのが、この町だったのだ。奴がここにいるかどうかは分からない。だが、何か足跡を見つけぬ限りは、ここを離れるわけにはいかないのだ」
隼人はそこまで一気に話すと、体勢を変えないままにふーっと息をはいた。
話したことで幾分軽くなったこの心、だが聞いた側には重くのしかかったことだろう。
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