「お朱鷺、最近おまえ誰と会っているの?」
ある朝唐突に母・節子にそう問われ、何の心構えもしていなかった朱鷺子は、中途半端に「え?」とただ一言返した。
それは隼人と出会ってから十日後のこと。それまで二人は毎日のようにお堂さんの入り口で落ち合っていた。特にそれが男女の仲を示すと言うものでもなかったが、ほんの十日の間に知り合ったとは思えぬほどに、二人は打ち解けあっていた。朱鷺子は隼人に自分にはない奥深さを見て、隼人もまた朱鷺子の明るさに救われる思いがしていた。
そう、それは横に並んで空を見上げているだけで、鳥の飛んでいくのを数えているだけで、何もかもが十分だと思えるもの。
隼人が自分をどのような気持ちで見ているのかは、不思議なことに朱鷺子の頭の中にはなかった。ただそうして二人でいられる時間があることが、朱鷺子の日々の楽しみになっていたのだった。
「杉並の奥様がこの前仰っていたのよ。お堂さんの近くでお前が男性と一緒にいたと」
「あ、あの…ごめんなさい。お店を途中で抜け出して…。でも私…」
長く暗い幕末が明けて、今やっと清々しい心持ちの中、密かに芽生えていた恋心。朱鷺子はそれをどうしてもないがしろにしたくなどなかった。その心が隼人に会いたいと思うなら、素直に受け入れていたかったのだった。
「お朱鷺、そうじゃないのよ」
母は未だ訝しげな表情のまま、朱鷺子の方へ向き直る。
「もしおまえが伴侶となりたい人を見つけたいというのなら、あたしも反対したりしませんよ」
それを聞いて朱鷺子はぱっと顔を上げた。しかし母はその表情を変えない。
「けれど…素性の知れぬ人というのには賛同できないのよ。杉並の奥様は≠アこいらで見ない男性だと仰っていたわ。勿論ここに長く住んでいる人の中にも、そう思ってしまう人の一人や二人あるかもしれない。でもそれを仰ったのが杉並の奥様だからこそ心配なのよ」
杉並家は老舗の金物屋で、そこの老主人の奥方である杉並留子は名物女将であった。
彼女はこの町の生き字引であり情報通。
つい先日生まればかりの、よその家の赤子の名前さえ知っているような人が、この町に住む人を見間違えるはずはない。母はそれを踏まえた上で、更に眉間に皺を寄せて朱鷺子を見つめた。
「あ、あの方は悪い人ではないわ。確かにこの辺りの人ではないけれど、私のことを助けてくださったもの。それに…」
朱鷺子は弁論の途中でふと言葉に詰まってしまった。「それに…」に継ぐ隼人のことが何も浮かんでこなかったのだ。
自分がこれよりほかに隼人の何を知っているというのだろう。いつも自分が喋るばかりで、隼人は優しくそれを聞いて頷いてくれるだけ。その横にいられることが嬉しくて、朱鷺子は隼人に何一つ素性を尋ねることをしなかった。否、尋ねることすら忘れていたのだ。
何もかもが十分だった、そう、一緒に空を見上げていられるだけで。
知らない…何も知ってなどいない…
それを痛感すると、朱鷺子はまるで強く頭を叩かれたような衝撃とともに、ひどく惨めな気持ちに駆られた。
隼人の良いところをもっと沢山知っているはずだった。その鼻筋がきれいに通っていること、風になびく散切りの黒髪、切れ長の落ち着いた目元に、上背のあるところ。それから立ち居振る舞いの美しさ。とりわけ刀を手にした瞬間のあの美しさは、背筋がぞくりとそそり立つほどであったのに。
「危ない真似ならもうよして頂戴な。これ以上何かを失うのは沢山」
母はゆっくりと数度首を横に振って呟くように言った。母の気持ちは痛いほどよく分かる…けれど失いたくないという気持ちなら、この恋心も同じこと。
「ごめんなさい、おっ母さん。もう少しだけ許しておいて」
朱鷺子はそう言うと途中で早くも駆けだして、店の前の大通りを走っていった。
出遅れて止められなかった母の「朱鷺子!」と呼ぶ声は、遠くの方に聞こえていた。
≫TOPへ