町の東の外れは、大変にひっそりとしていて商いの盛んな大通りとも、川の対岸の畑ともまた違った雰囲気をまとっていた。凛として静か、張りつめたような空気が周りとは気温が違うのだとすら思わせた。一本続く道は両側に松の林があって、独特の爽やかな香りが漂っている。
朱鷺子の言っていた剣術道場は、そんな道の先にあった。
時折吹く風にわずかに揺れる松の葉が、しゃらしゃらと音を響かせる以外にはほとんど無音といっても良い。剣術道場は今も健在なのだろうか。朱鷺子は「廃れはしたが由緒ある道場」なのだと話していた。そして「元々剣術の必要性のない町」であったと。せめて目指すものの痕跡のその一端でも残っていれば良いのだが…
「たのもう」
隼人は道場の入り口にたどり着いて、一言声をかけた。近くで見る道場は、建物全体が古い木材が持つ独特の濃い色合いで、どことなく埃っぽい匂いがしていた。風が吹くとそれだけで建具が揺れて、キィキィと軋んだ音を響かせる。しかしその一方で、屋根の際を見回しても蜘蛛の巣の一つだに見受けられず、もはや文字の薄れた道場の表札も、未だその風格は保たれている。確かに廃れはしたものの、どうやら健在ではあるようだった。
「たのもう、誰ぞおりませぬか?」
もう一度道場の中へ声をかける。しかしそれでも返事の返らない様子に、もはや今日のところは人のいないものと諦めて、隼人は一度借り長屋へ帰ろうかと考えた。
「…はい、ただいま」
そこへ僅かな足音とともに、ようやっと返事が返ってきた。開きの悪い戸がガタガタと音を立てて開いて、中から十四、五の少年が顔を出す。
「すみませぬ。奥にいたもので、お待たせしてしまいました。どちら様でございましょう?」
どこか武家の名残を残す少年、切れ長の瞳が隼人に問う。
「某は島田隼人と申す者。尋ね人があって参ったのだが、心当たりか縁のある者がおいでであれば、お目通し願いたい」
「は、はぁ…尋ね人でございますか?暫しお待ちを…」
少し困惑したように返事をすると、少年は床に付けていた片膝を上げて、道場の奥へと小走りで向かった。
隼人はその隙に道場の中を見渡す。日の光を成長した松の木に遮られ手か、中はひんやりとして薄暗い。壁に掛けられた名札表も、僅かにその枚数を数えられる程度。師範はなし、師範代は一人に、生徒は三、四人。名札表が大きいばかりに、その寂しさを増長させる。仕方がない…と捉えるべきか、時代は変わった…否、変わってしまった。昔ながらに磨き上げられた光沢のある床だけが、由緒を語る名残であった。
「何用でございますかな?」
暫しぼんやりとしていた隼人の元へ、初老の師範代が現れる。隼人ははっとして我に返り、目の前の男性に向き直って軽く会釈した。
「突然に伺い申し訳ない。某は島田隼人と申す者です」
「これはご丁寧に。私はこの道場の師範代であります、小池市三郎と申します」
そう言って彼もまたお辞儀を返す。白髪の混じる髪は未だ長く、髷が据えられていて、江戸の雰囲気を強く残す風体であった。身なりは質素な着物のみで、大変に穏やかな空気はおよそ剣客とは思えない。だが、歯牙を抜かれたわけでもないのだろう。腰に帯びた木刀を強く掴んで放さない。
「何か尋ね人がおありと伺いましたが?」
その一言に添えられた目配せに、隼人は自分の見解の正しさを見た。この小池という男、昔は相当の手練れだったに違いない。
似ているか…?
隼人は即座にそう勘ぐったが、いや違うとすぐに思い直した。今も覚えている…あの眼光はもっと鋭く光っていた。何年経とうと忘れられようはずもない。
「もし…もし心当たりがあればお教え頂きたい。この道場に通っていた者の中で、江戸の命により西方へ赴いた者がいたかどうかを」
隼人がそう尋ねると、小池は小首を傾げた。
「西方…・とな?はて、聞き及びませんな」
真のことか…?隼人は僅かな疑心を持って目を細める。小池もその目線に気づいてか、一拍おいて請け負うように頷き、そして言葉を続けた。
「かつて江戸からのお達しで、城中指南役に取り立てられた者ならおりました。ですが、その者が西方に向かったかどうかは聞いたことがありません」
「可能性は?」
「なきにしもあらず、としておきましょう」
小池は含みを帯びた物言いで、やんわりと隼人に言葉を返す。その名のごとく、まるで掴めぬ水のような…せめて固く尖った氷であったなら、打ち勝つものもあったというのに。
「…その者は今どこに?」
隼人が短く聞き返すと、小池はゆっくりと首を横に振った。
「死にました。ここにはついに戻らぬまま。行く行くは師範にもなり得たほどの腕前でしたが、長らく道場を空けて江戸に赴いていたが故に、今その男を知る者も数える程度にもおりません。尤も、道場は見ての通りの状態ですがね」
小池は遜るように苦笑すると、目線だけで静かな道場を軽く見渡した。
しんと静まり返って空気がピンと張りつめたまま、時の凍ったような古い道場。もはやこの町では剣すらも死んだ…それを何よりも強く思わせる侘びしい静寂。
「…そうか」
隼人は瞬きの途中で一度長く目を瞑ると、絞り出すような掠れた声で呟いた。
心の真のところでは、隼人は江戸に赴いたという男の素性を聞き出すつもりではいた。しかし一線を退いて尚警戒を解かぬ小池の雰囲気に、これ以上尋ねたところで答えはしないだろうと感じていたし、何よりも周りの静寂が隼人の口を紡がせていた。ここで根ほり葉ほり尋ねるのは、まるで昔の古く深い傷を容赦なしに抉るようにも思えて、隼人の心を強く締め付けていた。
(ああ、いつの頃だっただろうか…)
隼人は胸の内に、思い出深い光景を思い描いた。
それはとある剣術道場。
活気に満ちあふれ、威勢の良い掛け声に道場の中の空気は震え、目線の先にはいつの日も目指してやまない背中があった。どれほど幸せだったことだろう、あの動乱の時代の中で。今となってはその全てが失われて、何一つだに残ってはいない。
ああ、郷愁の稽古場よ。
光さんざめくあの日々は、もう二度とは戻らない。
「…いかがしましたかな?」
ややあって小池に声をかけられ、隼人は強く閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
「…いや…」
そしてふーっと息を吐く。まるで心のつっかえを緩和させるように。
「突然に訪ねて申し訳なかった。某はここで失礼する」
隼人は相変わらずの低い声に、深々としたお辞儀を添えた。踵を素早く返しては、足早に道場に背を向ける。
「もし、お待ちなされ」
そこを小池が呼び止めた。
「尋ね人を見つけたなら、貴方はどうするおつもりかね?」
小池には隼人の様子に察するところがあったのだろう。糸を張りつめたような静かな声で尋ねた。それはまるで隼人を諫めるかのような声色。年長者が同じ過ちを年若い者に踏ませまいとする制止とも受け取れた。
「…かたじけない」
小さくつぶやいた隼人のその声は、果たして小池に聞こえていただろうか。
忠告かたじけない…けれど…。
隼人は速度を緩めることなくそのまま歩き続けた。今なら振り返って、もう一度戻ることもできる道とは知りながら、再び静寂の道場を見遣ることはしなかった。
その遠ざかる背を見つめる二人の瞳。
一つは道場に残る小池市三郎のもの、そしてもう一つは松林の影に潜む人物。
使い込んだぼろぼろの編みがさを深く被り、そこから覗く輪郭には無精髭が見て取れる。着物は隼人の着ていたものよりもずっと擦り切れていて、浅黒い肌と相成って格段に近寄りがたい雰囲気であった。
「…ふ」
その男の発した小さな一言が、何か不満によるものだったのか、それとも嘲るものであったのか、当人以外には誰にも知られぬところであった。だが男は隼人の姿をしかとその目に捉えると、人知れず松林を後にした。
その腰には刀が一差据えられていた。
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