「隼人様…?」
「ところで朱鷺子殿」
朱鷺子の言葉を遮って隼人は不意に切り出した。先ほどまで確かにその顔に落としていた影を、一瞬でぬぐい去っている。
「あ、はい。何でしょう?」
「この町に長く住んでいるようだが、一つお聞きできないか」
「何をですか?」
朱鷺子は訳の分からぬまま、小首を傾げて隼人の言葉を待つ。
「この辺りに剣術の道場はないかと。その…兄上に剣の心得があったのなら、通っていたところがあったのでは?」
隼人は′Zの言葉を少しだけ潜めるようにして尋ねる。
「ええ、ございましてよ。この町の東の外れに道場があります。小さいですが江戸の頃より続いている、由緒ある道場ですわ。今は幾分人が減ってしまったと聞きますが、昔はそれは活気があったのだと。兄だけでなく、父も通っていた場所です」
「父上も?」
「はい。あ、けれど父の場合は病死だったのだと。実はお恥ずかしい話、父のことは私よく知らないのです。父は長いこと家を空けていたのですが、家長が家の者に事情をよく知らせぬままそのようなことをすることに、あまり多くの理由はございませんでしょう?ですから、詳しい話は私も母に聞きがたいのです」
「…そうか」
隼人はまた一つ聞いてはならぬ事を尋ねたのだと感じて、罰の悪そうに一言呟く。それに気がついて、朱鷺子は早口気味に切り替えした。
「あ、隼人様の目的とは道場のことでしたの?」
目的の一端を掴むまでは…そう言った隼人の言葉の意味を、朱鷺子は人知れず考えていたのだ。
「いや…そう言う訳ではないのだが…」
そしてまたフイッと隼人は目線を逸らす。
しかし朱鷺子は隼人のそんな反応に対して、ふふふっと鈴のような含み笑いをした。隼人は不可思議な表情で、朱鷺子の方へ振り返る。
「お互い様、ですわね、私たち」
お互いに思い出したくないことがあって、お互いに人には言いがたい秘めたものがあって、それを話すときには目線を思わず逸らしてしまう。
おしゃべりな朱鷺子と、無口な隼人。
そんな対照的な二人にあって、お互いを映す鏡のような共通点。朱鷺子はそれが嬉しくて、頬を赤らめて微笑んでいた。
「そうだな」
隼人もそんな朱鷺子を見ると、はにかむように笑った。朱鷺子とは違って声を立てず、ただ目を細めただけの静かで柔和な笑み。
ああ…なんと至福の時、空が綺麗に晴れ渡った時と、新しい着物を初めて着た時と、珍しい干菓子をもらった時と、そのすべてを合わせてもまだ足りないほどに、今満たされているこの気持ち。この時がずっと続けばよいのにとすら、朱鷺子は思っていた。
「…さて」
だがややあって隼人が切り出す。
「俺はそろそろ行かなくては。その道場を早速訪ねてみようと思う」
「え?あ、はい…」
朱鷺子は隼人の言葉に、心中大変に惜しく思われたのをとっさに隠して返事を返した。明日もまた会えるだろうか、心は早くも次の機会を待ちわびている。
「着物のこと、大変にかたじけない。ありがたく着させてもらう」
「とんでもないですわ」
「ではまた」
隼人はさりげなくそう言うと、着物の入った包みを小脇に抱えて朱鷺子とすれ違った。足摺の音が、一歩また一歩と遠ざかっていく。
「ではまた」…朱鷺子の心中には隼人の一言が反響していた。また会いたいと願う心に、共鳴してくるその言葉。別れ際の寂しさに負けぬ嬉しさが、また心いっぱいに溢れてくる。
「ええ、ええ!必ずまた!」
朱鷺子は人目もはばからず、大きく手を振って応えた。頭上に広がる青空と同じくらいに清々しいその声。隼人は一瞬だけ振り返るような素振りを見せたが、朱鷺子の顔を見るまでには省みることはなく、少し歩みの速度をゆるめただけでそのまま歩いていった。隼人は一体どのような表情だったのだろうか…、それを想像するだけでまた胸の奥がくすぐったくなる。朱鷺子はにっこりと満面の笑みのまま深く深呼吸をした。
どれだけたくさん息を吐いても、胸には嬉しさの固まりが確かにあって、呼吸と一緒に抜け出ていくことは決してなかった。その胸の重みが、朱鷺子には大変に心地よく感じられたのであった。
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