次の日の昼間、隼人は言われたとおりにお堂さんと大通りの境目に立っていた。太陽は真上から若干西へ動いたところにあり、昨日とほぼ同じ刻の頃と思われたが、幾分早かったのだろうか。朱鷺子はまだいない。

 

 隼人は両の袂に腕を入れこんで、そばを流れる川の対岸を見ていた。

こちら側は朱鷺子の言っていたとおり商業に秀でた町だったが、向こうに見えるのは農夫の姿。腰を曲げて田植えに勤しむ姿が見える。大通りからの人の声と、川のせせらぎのそのちょうど中間にあって、どちらとも隔離されたような静けさを隼人は感じていた。

空の青さは昨日と同じ、そよぐ風もまた同じ。誰の心をも穏やかに変えてしまいそうなほど、平和な日和であった。

 「隼人様!」

 そこへ高く明るい女性の声が駆けてくる。丁字色の紬の着物に茶色の帯を締めている姿は、また昨日とは違った雰囲気を与える。それとは打って変わってまったく同じ身なりの隼人。彼の着物が同じなのは昨日と今日のことだけではない。その前の日も、そのさらに前もなんら着物に変化はなかった。

もうどれだけ着ただろうか、擦り切れと汚れでおかしな濃淡がある群青の着物。このような姿では店番も逃げよう。

商業の栄えるこの町で、ひどく場違いに見えるこの姿。

「きっとおいでくださると思いましたわ」

 朱鷺子はそんな隼人の負い目をぬぐい去るような満面の笑みで言った後、少し罰の悪そうに「遅かったかしら」と付け加えた。隼人はそれに首を横に振ってから空を見上げる。

「いや・・・今がちょうどその時だろう」

 まるで今をそっくりそのまま昨日と入れ替えても気がつかないだろうほど、いつも変わらず穏やかな日。空を飛ぶ鳥の数さえも同じに見える。朱鷺子はそんな隼人の横顔を見上げなから、唇を噛むようにしてはにかんだ。

喉の奥で心地よく震えてから発せられる声、凛としていながら穏やかな表情。その両方ともが朱鷺子の心をくすぐっている。これを世に言う一目惚れというのだろうか。確かに助けてくれた時の立ち振る舞いが、鳥肌の立つほど美しかったのも事実だが。

「…それより今日はどうして?」

 ややあって隼人は目線を空から朱鷺子へ移して尋ねた。

「あ、その・・・是非とも昨日のお礼をと思いまして…」

朱鷺子は慌てて隼人に見とれていた自分を取り繕って、手に持っていた風呂敷包みの結び目を解いた。中にははなだ色の着物と、黒地に縞模様の袴、そして小物一式が入っていた。若干着古されて馴染んだ表面のそれを前にして、朱鷺子はまた恥ずかしげに唇を噛む。

「我が家は呉服屋ですから、本来ならば新しく綺麗な着物を差し上げたいものでした。これは兄の着ていたものなのですが…」

「そのようなことはない。とてもありがたい」

 折しも自分の身なりを振り返っていたところであった。元々少ない金子を切り崩してでも、着物を新調すべきかと考えていた。

「ああ、良かった。ところで隼人様、身の丈はいかほど?」

「五尺…八寸といったところか」

「あら、それでしたら尚のこと喜ばしいですわ。兄もちょうどそれくらいでしたの。誰に似たのか、この時分には珍しく六尺近くもありましたから、私でさえその着物を着られるほどでしたのよ」

 朱鷺子は楽しそうに笑いながら、頭の上に手の平を乗せた。

かつて兄とそうだったように、朱鷺子は隼人よりも一尺弱ほど背が低い。男女の着物で構造上の違いはあれど、彼女の言うように男性ものの着物を女性らしく合わせることもできよう。

「昨日、男手がいないと言っていたが、兄上は?」

 隼人がそう尋ねると、朱鷺子は一瞬笑顔を凍り付かせて、それから小さいため息をついた。

「…死にましたわ、幕末の頃に。剣を嗜む心得があったばかりに動乱に巻き込まれて・・・」

 一体誰の手にかかったというのだろう。一太刀の下に斬り伏せられた体は両断され、弔いもそこそこに埋葬するほかなかったのだ。今も朱鷺子の中に強く残る兄の最期の姿。人形の方が人間らしく、雨の日に斬られて血をすべて洗い抜かれた兄の体は、物言わぬただの肉片のようでしかなかった。

幕末は嫌い・・・思い出す度に朱鷺子は涙声でそう呟いた。朱鷺子にとって幕末の頃は、家族を失ったすべてであった。

「でも…」

 一転して朱鷺子はぱっと顔を明るくして隼人を見遣る。

「だからこそ私、明治のこの時が好きですわ。日和は穏やか、空は青く澄み渡って鳥が飛ぶ…。くよくよといつまでもあの時の事を引きずっている場合ではないと思えますの。特に鳥の飛んでいく姿が好きですわ。ほら、あんな風に」

 空を指さすその先の、雀の飛ぶ様を隼人も見上げる。

上空は風が強く吹いているようで、白い雲がゆっくりと東へ流れていた。雀はその風に乗って、さも楽しげに空を浮き沈みする。チチチ、チチチと交わす言葉はまるで歌のようで、朱鷺子が「好きだ」と言ったことに共感を覚える。

「…そうだな」

 隼人は小さく、半ば自嘲的に呟いて、空と朱鷺子から目線を外すとため息をまじえた。こんな日和に何が胸中をよぎったのだろう。隼人はひどく寂しげだった。

 

 

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