くるりと踵を返して歩きだした男性に、朱鷺子は小走りでその後につく。男性は足音でそれを捉えているのだろう、ただの一度も振り向きはしない。ひどく無口で無愛想、それは孤高という雰囲気に少なからず相当するものではあったが、初対面の場においては気まずさを増長させるものにすぎなかった。

「あ、あの…!」

 朱鷺子は耐えかねて、より男性に近づいて口火を切る。

「自己紹介をさせて頂けませんか?私、門倉朱鷺子と申します。この先の大通りに面した呉服屋の娘です」

 朱鷺子は男性の了承を得る前に、一息にそこまで言い切った。そして上背のある男性を、上目遣いに見て小首を傾げる。「貴方は?」、そう口にする代わりに口元に微笑を浮かべて見せた。男性はすぐにそれに気がついたようであったが、一瞬目をそらすと茂みの終わりを掻き分けて、そこから見える川岸を見遣った。

キラキラと初夏の日光が水面に反射して男性の顔を照らす。その横顔が、またなんと鼻筋の通っていることだろう。少し長い散切りの髪の毛が風にそよいで、切れ長の整った雰囲気を強くさせる。朱鷺子は男性の回答を待っていることも忘れて、思わず見入ってしまった。

「…俺は島田」

「え?」

「島田隼人と申すもの。浪人、この辺りの生まれではない」

 ぶっきらぼうに言い終えてから、隼人は目線を流しながら朱鷺子に合わせた。その物言いには、どこか躊躇いが感じ取れた。彼はいったい何の理由があって、名乗ることを躊躇したのだろう。

「では隼人様、どちらからここへいらっしゃいましたの?」

「…ここより幾分西の方」

 そしてそれ以上は言いたくないと言わんばかりに、ふいっと再び目線をそらした。朱鷺子は彼の印象として、孤高のほかに秘密主義であるとも加えておいた。心に引いた一線を、決して他人に越えさせようとはしない頑なな意志。

 何故人の心とは、こうも隠されては逆に知りたいと思ってしまうものなのだろう。朱鷺子はさらに追求したい気持ちをぐっと押しとどめて、少しの間口を閉ざした。そして横目でちらりと隼人を見遣る。上背のある隼人・・・朱鷺子は彼の肩の辺りまでしか届かない。その表情をうかがうには、どうしたって首を意識的に持ち上げなければならない。朱鷺子にはこの時、そうまでして隼人の顔を改めて見る勇気を持つことが出来なかった。結った髪の後れ毛を気にしつつ、縞模様の小袖の裾を直したりなどして少しの沈黙を凌ぐ。

 「…刀を…お持ちなんですのね」

 ややあってから朱鷺子は呟くように言った。隼人の左側を俯き加減に歩く朱鷺子の目には、常にその鞘が映っていた。黒の鉄拵え、その柄は使い込まれて薄く汚れている。

「…そういえば先ほど言っていたな、時代遅れだと」

「あ、いえ…それは売り言葉に買い言葉と言いますか…、ただ咄嗟に…」

 自嘲的に返された隼人の言葉に、朱鷺子は慌てて否定をしたが、見上げた目に少し寂しげな隼人の表情が飛び込んできた。

「…ごめんなさい…」

 そうして再び俯く。僅かに混じえたため息が小さく震えている。

「何故謝る?」

「あの言葉、本当のところでは普段思うことに違いはありませんでした。刀など…もう過去の代物だと。…ごめんなさい、貴方にとってどんなものかも知らないで…」

「いや…」

 隼人は小さく一言呟いただけで、また川縁に目線を移した。何を思うところがあったのだろうか、再び口を閉ざしたその表情は奥の深いものを思わせる。

「刀が過去のものということは、この辺りでは帯刀する者はほとんどいなくなったのか?」

 不意に隼人の方から朱鷺子に問いかける。

「え?ええ…・、一昨年に平民の帯刀が禁止され、昨今誰をも問わず散髪と廃刀を許可されて以来、近辺では刀を持つ者はすっかりなくなりました。元々商いの盛んな町でしたから、最初からさほど必要に迫られたものでもなかったといえばそうなのですが…」

「そうか…」

「それがどうかなさいましたの?」

「いや…」

 また同じ短い言葉を呟いて、隼人は再び黙り込む。

言ったように朱鷺子が産まれ住んでいる江戸の外れのこの地域は、幕府設立の頃よりの商いの町。口の立つ男衆なら見慣れていたが、隼人のように寡黙な男性と話をするのは初めてのことであった。朱鷺子は答える際に、折りよく見上げることの出来たその目線を、暫く下げずに隼人を見つめていた。しかと前を見て揺るがないその瞳に、朱鷺子は隼人の強い信念を見受けて、顔が火照るような思いがしていた。

 

 

 「さあ、あの道まで出れば良いか?」

お堂さんの終わりまで来て、隼人は人の往来のある道を見ると、それを指して朱鷺子に尋ねた。それはこの町の大動脈ともいえる通りで、多くの店が軒を連ねている。朱鷺子の生まれ育った町、老若男女が絶えず道を行き来する見慣れた光景。朱鷺子はそれを見てホッと安堵したのと同時に、どこか寂しく思う心持ちを感じていた。成り行きで道を共にしただけの二人であったが、ここを限りに別れてしまうのが朱鷺子にはひどく惜しく思われたのだった。

「あの…隼人様は…」

 朱鷺子は暫く見つめていた大通りから目を逸らして、今一度隼人を見上げた。

「隼人様は今、どちらにおいでなんですの?」

 不意に朱鷺子にそう尋ねられ、隼人は幾ばくか目を丸くして彼女を見遣った。そして一拍置くようにしてから、おもむろに町の西側を指す。

「この先の外れにある借り長屋に今は身を置いている」

「この町にはいつまで?」

「それは分からない。だが、まだここには来たばかりであるし、目的の一端を掴むまでは安易に動くことはしない」

「では明日もいらっしゃるんですのね?」

 まくしたてるように朱鷺子は言葉を重ねた。隼人は返答する余地もなく、ただそんな彼女を驚きつつも見つめ返す。

「明日、またお会いできませんか?そう…今この同じ場所、時間もこの刻で。お会いできませんか?」

 朱鷺子は同じ言葉を繰り返し、見上げた目線で隼人の瞳の奥を見つめた。心の片隅では、自分がどんなにか唐突で不躾なことを言っているのだろうとは強く感じていた。だが別れを惜しく思う心が、まるで堰を切ったように一気に溢れだして、隼人にそう申し出ないわけにはいかなかったのだった。

「…分かった、ではまた明日」

 呆気にとられた隼人ではあったが、朱鷺子の真剣な眼差しに頷いて返す。その驚いた顔が、先ほどまでの冷徹な表情とは打って変わって少年らしく、朱鷺子の心に一層くすぐったいような感覚をもたらしていた。

「では明日。必ず来てくださいましね、きっと」

 朱鷺子はすがるようにして隼人をもう一度頷かせると、満面の笑みを浮かべてから大通りへ駆けていった。その足取りはとても軽く、一足ごとに空に跳ね上がっていけるようで、後ろ姿はまるで幼い少女のように見えた。

(不思議な娘だ…)

 隼人は暫くどこか微笑えましげに朱鷺子の姿を見ていたが、ややあってからくるりと踵を返して借り長屋へと帰っていった。

澄み渡った明治の空を、鳥が数羽楽しげに飛んでいく。ガヤガヤと騒がしい大通りにあって、チチチと聞こえた可愛らしい声に、朱鷺子と隼人はそれぞれ空を見上げた。

 

 

太陽が眩しい皐月の頃、二人はこうして出会ったのである。

 

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