その一瞬にまるで呼吸は凍り付いたかのよう、全身が硬直し、絶望に眼球が痛くなるほど瞼を強く閉じていた。が、しかし…

「…?!!」

 その瞬間をすぎても一向に刀が振り下ろされる気配がない。もしや恐怖のあまりに訳も分からぬことになって、自分がそれと知らぬ間に斬られてしまったのだろうか。

朱鷺子はそんなことを思いながら、恐々と瞳をあけた。目に映るのは草木の生い茂るお堂の前、瞳を閉じる前と何も変わらない風景。ただ一つ違うのは、自分の前に立っている男性の数が一人増えていることだった。

「このような昼日中に、よってたかって女を囲むか。浅ましい奴らめ」

 一体誰であろうか。身の丈は六尺弱、散切りの黒髪に深い藍色の袴姿、腰には刀。切れ長の瞳が三人の男たち冷ややかに見据え、逞しい腕が手下の振りあげた手首を握って振り下ろせぬようとどめていた。生まれたときからこの辺りに住んでいる朱鷺子でさえ、初めて見る顔であった。太陽の逆光でその顔が見づらいことが惜しまれる。

「なんだぁ?この若造が!」

「お前たちも元は武士だったのだろうが、ここまで落ちてはただの追い剥ぎだな。そのように使われて刀も泣くぞ」

「痛ぇ痛ぇ、兄貴!こいつ力が…ああっ!」

 突如として現れた男性は、掴んでいた手首を後方へと押しやり、手下はそのまま尻餅を付くように倒れ込んだ。ただの片腕一本で、まずは一人。手下は刀を取りこぼし、手首を押さえてヒィヒィ呻いている。

「どいつもこいつも洒落臭ぇ!おい、辰!かからねぇか!!」

「で、でも兄貴…六助のやろう…・」

「情けねぇ声出すんじゃねぇ!てめぇ…若造がいい気になるなよ…!」

 追い剥ぎの頭取は勢いよく両手に唾を吹きかけて、すらりと腰から抜刀した。そして静かに佇む男性との間合いを計りつつ、じりじりとにじりよっていく。朱鷺子はガクガクと足を震わせながらも、何とかその場に立って一部始終を見ていた。男性は相変わらず冷めた目線で頭取の動きを追う。刀を抜かないのだろうか、頭取は今すぐにでも飛びかかってきそうな勢いであるのに、男性は朱鷺子が逆に不安に思うほど落ち着いている。

「まずはてめぇから死になぁ!」

 頭取は背に太陽を向ける位置まで移動したところで、遮二無二刀を振りかざした。その切っ先が再び日光に反射して、それを見ていた朱鷺子は一瞬眩しさに眩む。

これではあの男性も同じ立場なのでは…?!

「危ないっ…!」

 朱鷺子は思わず叫ぶ。

だがそんな心配もどこ吹く風、男性は身を軽く屈めたかと思うと、疾風の勢いで刀を抜き、さらに目にも止まらぬ刹那の間にくるりと刀を反転させた。

(峰打ち…?!)

 朱鷺子が辛うじて見て取れたのはそこまでであった。頭取よりも一瞬早く振り下ろされた男性の一太刀に、辺りにドッという鈍く低い音が響く。

「がはっ…!」

 右肩から一気に袈裟斬りにされ、頭取は短く呻くとそのままバッタリと草むらに倒れ込んだ。峰打ちであったが故に致命傷にはならずとも、暫くはまともに起きあがることすらできまい。まこと見事な一太刀、迷いなく振り下ろされたその剣筋には、長い精錬によって研ぎ澄まされた美しさがあった。朱鷺子は一瞬恐怖を忘れて、その剣筋に見とれていた。

「あ、兄貴?!」

 残された六助という手下は、あたふたと慌てふためき倒れて動かぬ頭取に駆け寄る。すぐそばでは兄弟分であるもう一人の手下・辰が、相変わらず手首を押さえて呻いている。それは本当に一瞬の出来事のようであった。一迅の風、青天の霹靂、はたまた遠い空の上から一気に舞い降りて獲物を捕らえた鳥のよう。あれほど朱鷺子のすぐそばにあった命の危険が、夢であったかのように今は落ち着いている。

「もう行け。二度とかような真似をするな」

 辛辣な男性の言葉に、六助はあわあわと何か訳の分からぬ言葉をどもらせながら、兄弟分を立ち上がらせ、頭取を肩に担いだ。先ほどまでの圧倒的な威圧感はどこへやら、よろめいて立ち去っていく姿は、逆に哀れと思えるほどであった。

 

 

 「ああ…良かった…」

 そう安堵すると途端に足の力が抜けて、朱鷺子は草むらにへたりこむ。あれほどの怖い思いは、明治に入ってから初めてのことであった。すっかり世は泰平になったものと思っていたのに、幕末の残党は未だなくなりはしない。それはまるで青空に少しの暗雲があるように。

「…怪我はないか?」

 ややあって男性は朱鷺子に手をさしのべる。

まずは刀を納めた鞘が目に入り、それから汚れた着物、手のひらは大きく逞しく、顔つきは精悍。猛獣のような荒々しさは微塵もなく、それはそう・・・あたかも凛とした野鳥のようであった。何をも寄せ付けない孤高のその雰囲気が、逆にお近づきになりたいと朱鷺子に思わせた。

「あ、ありがと…・ございます。あの、本当に助かりました」

 朱鷺子は男性の手を取って立ち上がると、頬をほのかに赤らめて目線を若干泳がせつつも、誠意を込めてお礼を言った。

「礼には及ばない。だが、そのような荷物を持って女が一人、人気のない道を行くことには感心しないな」

「え、ええ…まこと仰るとおりですわ。面目もありません。けれど仕方のないことだったのです。我が家にはもう男手がおらず、祖母は足腰も弱く、母は店番を空けられぬとなればもう私しかいなかったのです。それがまさかこのようなことになるとは…」

 そうして罰の悪そうにうなだれる。両手に抱えた風呂敷包みをぎゅっと強く引き寄せながら。

「…人通りの多い道まで送ろう」

 朱鷺子の様子に、一呼吸おいてから男性は呟いた。

動乱の時代が明けたとはいえ、未だその残りを引きずるものは多い。男手がないというのは、その代表的なもの。まことあの時代は失うものが多すぎた。

 

 

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