幕末の様子を空模様にたとえるなら、さしずめ曇天のようであったという。
疑心と策略とが充満し、幕府側と維新側とが大小様々に剣を交えては、血の雨がそこ此処降り注いでいた。世の表舞台に語られている事件など、ほんの一部のことに過ぎまい。安政の大獄、池田屋事件、会津戦…・その影に隠れて、一体どれだけの血が流れたことか。悲しみと憎しみの渦巻いた暗い空…降り出す雨は涙そのもの。しかしそんな幕末の頃よりくすぶり続けていた戊辰戦争という名の最後の残り火も、ようやく遠い北の地で集結したとなれば、文明開化の太平の世に広がる空は、一段と青く見えるのであった。
時は明治四年、初夏の頃。
散髪廃刀が許可されてより約一年。時代は暗く長きにわたった曇天模様から、大きく動き始めていたのであった。
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「もう嫌になっちゃう!」
昼間でありながら人気の薄い河川敷を、少女が一人半ベソをかきながら走っていた。
そこは背の高い植物が道々を覆い、枝垂れた一本の柳の古木がひどく不気味に見える場所で、誰であれここを通ることを避けていたのであった。いつの頃からあるのかは誰も知るところではなかったが、その河川敷には道祖神をまつった小さなお堂があり、それ故にその道は通称を「お堂さん」と言って、子供を持つ親たちは必ず「お堂さん回りをしなさい」とその道を遠回りをさせていたのだった。無論少女も幼い頃から、同じように言われて育った。
彼女は門倉朱鷺子といって、城下町の老舗呉服屋の娘であった。普段お転婆といわれている朱鷺子であっても、小さな頃からの通例でお堂さんを歩きたくはなかったのだが、つい先ほど着物を買った客が持ち合わせがないというので、お堂さんを抜けた先にあるその家まで一緒に付いていき代金を受け取った帰りだったのである。婚礼の反物の代金であったから相当値も張るもので、彼女とて一応それと知られぬよう何気なく家まで帰るよう心掛けてはいた。しかしどこで嗅ぎつけたのか、朱鷺子が一人になったところで茂みの影から突然三人の見慣れぬ男が現れて、絡まれたところを命辛々逃げてきたのだ。
朱鷺子は巷では韋駄天娘だと言われてはいたが、有り難くも重い荷物と激しい緊張と恐怖でなかなか思うように走れなかった。
男たちはどうしただろう…追ってくるものとばかり思っていたが、不思議とその足音が聞こえてはこない。諦めたか…それともどこからかまた隠れて狙っているのか。朱鷺子の心臓は張り裂けんばかりに大きく鳴っていた。
(ああ…もうどうしたらいいのだろう…?)
朱鷺子は河川敷にひっそりと立っているお堂の影に逃げ込んで、上がった息をふるわせながらその場にしゃがみ込んだ。人通りのある道まで出れば何とか一安心…だが、とても一息に走り抜けられそうもない。心臓が脈打つ度に胸は痛み、呼吸の中に血の味が混ざるような感覚がしていた。朱鷺子は代金の入った風呂敷包みを体の間に挟み込んで、抱えた膝に額を当てた。逃げ込んだお堂の隅は、まるで背の高い草に守られた砦のようで、一度入り込んでしまったからには出ていくのがとても恐ろしく思われた。しかしだからといって、このまましゃがみ込んでいるわけにはいかない。いずれ夕闇が迫って辺りが暗くなればさらに人通りは遠のき、奴らにとって絶好の機会となる。せめて誰か一人通りがかってくれた…・、しかしその人が善良な一般市民である確証はもてない。それよりも奴らの仲間のうちの一人で、飛び出した途端にまた取り囲まれるかもしれない。朱鷺子はそれを考えると、先ほどの状況を思い出してゾクリと身震いをした。
殺されるのだと思った…汚れた身なり、悪どい人相、荒々しい言葉。もう二度とあのような思いはごめんだ。朱鷺子は唇をかみしめてそう決意を固めると、背の高い草に紛れるようにそっと立ち上がって通りまで駆け抜けようとした。今は自分のすぐ傍らにある恐怖から、一時でも早く離れたい。
「おおっと、嬢ちゃん。そこにおいでなすったかい」
途端に背後から声がして、朱鷺子は体をびくつかせて振り返った。やはり奴らは諦めてなどいなかった。知らぬ間にこんなに近くまで朱鷺子を追いつめて、いつ襲うかもわからない状況だったのだ。朱鷺子は向き直って、目の前の大柄の男からじりじりと後退した。この男が頭取なのか、上半身は裸で腰から下の着物はひどく汚れて所々破れている。落ち窪んだ目に、ニヤリと笑うといくつか歯が抜け落ちているのが見て取れて、残った歯もひどく並びが悪い。筋骨隆々、帯びた刀は年代物。
「ひ、人殺し…!」
「何を言ってるんだい。まだ何もしてないだろうが、ん?」
「このご時世に刀など帯びて…時代遅れもいいところだわ!」
「嬢ちゃんが素直にそれを渡してくれりゃ、俺も獲物を使わなくていいわけよ」
「どうせ渡したところで、素直に私を帰す気もないでしょうに!こ、このような真似、みっともないったらありゃしない…!」
朱鷺子は恐怖にかられて思わず啖呵を切ってしまったことを、即座にひどく後悔した。普段「威勢がいい」といわれていることは商売柄彼女にとっては誉め言葉であったが、この時ばかりは短所であると思わざるを得なかった。対峙している男の顔が、醜く歪んで不敵な笑みを浮かべる。
「ははっ、こりゃまた怖い物知らずときたか、小娘が。おい辰、六助!かまわねぇ、やっちまいな!」
「おうよ、兄貴!」
男に呼ばれて、同じく草むらに潜んでいた手下二人が現れる。その手には既に抜き身の刀。朱鷺子は恐怖に足がすくみ、もはや後ずさりさえできなくなっていた。
「あ…あ…」
「あばよ、お嬢ちゃん!」
手下の内の一人が高々と刀を振りあげて、その切っ先に太陽の光が反射する。朱鷺子は風呂敷包みを胸に抱え込んで体を強ばらせ目を強く閉じた。
ああ…もはやこれまで…!死にたくなどないのに!
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