「…上原喜代貞殿とお見受けいたす」
音もなくひっそりと、辻の暗がりから男が一人現れる。
時は幕末、新月間近の暗い夜道、人の姿も疎らな町の外れ。話すことすら躊躇われる静寂の中で、音のするものは風が揺らす辻の草木だけであった。
そんな夜道を提灯一つの明かりで歩いていた三人連れは、暗がりからの声に一斉に振り返った。
「いかにも。じゃが何奴?」
呼び止められた男、維新派の志士である壮年の上原喜代貞は暗がりに尋ね返した。
彼が刀を振るった剣士であったことも今は昔、すっかり白髪になり老いによって剣の腕は衰えたが、その代わりに百計の志士として幕末の世を暗躍していた。%zの口車に乗せられては、秘密を話さないわけにはいかない…それが上原喜代貞を知らしめる言葉。
だがこの時ばかりはそんな彼の言葉にすら返答はなかった。ただジャリッと足摺の音が響く。月明かりも乏しい夜更けにあって、その潜む影を人の形にとらえることすら難しい。しかし提灯の僅かな明かりに両目がギラリと照り返す。
「む…いかん、ここはお逃げくだされ、上原殿」
傍らの用心棒がいち早く状況を察知して、自分の背後に主を下がらせた。
「何故じゃ、島田。あれは何じゃと申す?」
「あの鋭い眼光…決して姿を見せぬ振る舞い、間違いなく奴は人斬り・辻兄鷹(つじせう)。上原殿の命を狙っておるのです」
「何!?あれが例の…」
%田と呼ばれた用心棒の潜めた言葉に、上原喜代貞は肩越しに前方を見遣った。
ここのところ多くの志士たちが、既に人斬り・辻兄鷹に喰われたと聞かされていた。それも揃って腕の立つものばかり。
暗闇に爪を立て、表舞台を決して飛ばない…そう、その素性を知る者は誰一人としていなかった。
「あれに出くわしたら打ち負かそうなどと企ててはなりません。さ、ここは私が請け負います。貴方はこの場を離れてくだされ」
「しかし父上…」
上原喜代貞の背後についていた用心棒の息子が、思わず自らの父に口添えをした。
打ち負かしてはならないものであるのなら、それは父である用心棒自身にも言えること。今年元服したばかりの若い息子は、やっと父とともに用心棒の仕事を回り始めたばかりであった。元々父から指南を受けたこの刀、まだまだ発展途上の腕であればなおのこと、今この場で父を亡くす訳にはいかなかったのだ。
「いいから、お前は上原殿を無事送り届けなさい。私も後から行く」
「勝てるのか、島田」
「なに、*ウ理はしないとでもしておきましょう。私にもまだ先が楽しみなことがあります」
「父上…」
「さ、早く」
父の背中に促され息子は黙って頷くと、踵を返して上原喜代貞とともに小走りでその場を後にした。他に紛れているかもしれない人斬りの影に用心しつつ、市井をならべく静かに駆け抜けていく。
しかしそうやって走りながらも息子は父を顧みた。
その背中の向こうに人斬り・辻兄鷹。
小柄な男…顔は未だに暗闇の影に隠れているが、鷹の名にふさわしく瞳は鋭く光っては、父である用心棒を見据えていた。一体二人はその時何を話したのだろう。それは木々の揺れる音に紛れて、息子には何も聞き取れなかった。ただ目に飛び込んでくるすらりと抜き身の…その妖しい光が二本、路地裏に光ったところまでは捉えていたが、角を曲がった途端に何も見えなくなった。
その後のことは何も知らない。
だが父はそれっきり家には帰ってこなかった。
翌日、橋脚に引っかかって浮かぶ見慣れた着物の柄が、そのすべてだった。
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