炭鉱は進むごとに気温を下げていった。ひんやりとした空気が辺りを包む。先頭のシナと後方のエンダーの持つランプの明かりに、粗削りの壁面が多様な影を落とす。そこには電灯が長い配線を延ばしていたが、輸出の終わった時期においては大元のブレーカーが落とされていて、暗く冷たく垂れ下がるだけであった。これを勝手に付けようものなら足がつく。今は前後から魔法によって一段と明るく照らすランプが、4人を導いていた。
「…寒い?」
カーサの震えるような吐息を聞き取って、アルベールが尋ねる。
「ううん、ドキドキしてるだけ。不謹慎かもしれないけど、炭鉱の雰囲気って何だか不思議で楽しいの。」
暗い道、ランプの明かり、空気の冷たさ…これが単なる冒険なら、どんなにか楽しいことだろう。今はハネスゲルンに…大陸の最南端に、無事に着けるかどうかの瀬戸際だとは承知している。それでもいくばくかの好奇心を、完全に抑圧することは出来なかったのだ。
「暢気なんだね、意外と。」
列の後方からエンダーが呟く。
「ふふ…そうよね。ちょっと無神経だったわね、ごめんなさい。」
「いや、怖いと感じているよりずっといいよ。」
「そうそう、せっかくだし少しは楽しもうぜ。」
アルベールとシナは、そんなカーサを弁護する。遥か昔のルルイエで、力の氾濫を防ぐために自らの好奇心を押さえ込んでいた、かつての彼女を知っていたからだった。
「楽しむのもいいけどさ、少しは急がない?早く着くに越したことはないんでしょ。」
「そうだな…“急いで、だが焦らず”ってことだ。トロッコ乗り場まであと少しだからな、足元には気をつけて。」
シナはそう言って僅かに歩く速度を上げた。予想していたよりもずっと広い炭窟に、4人の足音が反響する。途中差し掛かった地底湖には、天井の鍾乳石から垂れる水滴が、誰に聞かれるでもなく清廉な音を響かせ続けていた。静かな山…静かな炭窟、イオ・チュリアの山脈は、まるで深い眠りについているようだった。カーサはその空気に、どこか覚えのある寂しさを感じていた。ともすれば泣き出してしまいそうな程、切なく脆い感情。誰かを愛しく想い待つ…しかし一体“誰を”だったのだろう。
「ここか?」
アルベールの声が響いて、カーサは寂しさの根源を突き止めようとしていた意識を、今一度自分の身に戻した。ランプの明かりに、足元の線路がその存在を誇示していた。
「ああ、ここから先はこれに乗っていくんだ。」
シナは並ぶトロッコの1台に近づいて、その車体を軽く叩いて示した。他の車体より少し大きめの、側面にレバーのついたトロッコ。年季の入った車体の木の色が、手慣れた事への安心と崩れてしまいそうな不安を同時にもたらす。
「これはトロッコを連結した時に先頭になるものなんだ。レバーはブレーキ、速度調整が利く。カーサ。」
「はい。」
「こいつに魔法を授けてくれないか?」
まっすぐにカーサを見つめるシナに促されて、頷きながらトロッコに近づく。まだ魔法を与えることにいくばくの不安がある。けれど、シナの“魔法が当たり前だ”といった物言いがカーサを動かしていた。大丈夫…魔法を一番に信じなければならないのは私。自分の思いをどれだけ変えられるか、それを知っているのも私なのだ。魔法は必ず宿る。
「どんな魔法?」
カーサはトロッコを見つめ、それからシナに目線を合わせた。穏やかな笑み…その表情にシナも安心を感じていた。
「そうだな…“たとえどんなに速度が出ていても、線路の分岐で必ず止まる”、そんな魔法がいい。」
「それならブレーキね。」
そう言って側面のレバーにそっと触れた。今まで何人の男がこれを握りしめてきた事だろう…物も生きているのだ、そして記憶している。その証を自らに傷として残すことで。
聞こえる?私の声が…
カーサは物言わぬレバーに、心内で小さく話し掛けてみた。言葉が返るわけではないけれど、この錆び付いたレバーにも作った人や使ってきた人達の存在がある。そこに魔法を加えるなら、私もそれらの存在を汲み取らなければならないのだ。かつての自分がそうしていたように。
「…ありがとう。」
カーサは閉じていた瞳を開けて、先ほどよりも若干輝き出したようなブレーキにそっと呟いた。ありがとう…魔法を受け取ってくれて、そして今一度過去の自分を思い出させてくれて、と。
「…これで大丈夫かしら?」
「ああ、勿論だ。さすがだな、カーサ。」
シナの言葉に笑顔で応える。数日前にはとても信じられなかった自分の力が、今は何よりも信じたいものになっていた。長きにわたり眠らせてきた本能が目覚め始めたか、それでも遠く記憶の彼方で未だ目覚めぬ不安や蟠りが、いつまでも消えずにいたのだが。
「よし、ブレーキは俺が持つ。エンは前方で分岐を見極めろ。トロッコは分岐で必ず止まるから、間違っていたなら直すんだ。いいな。」
「ああ。」
「カーサとアルは真ん中だ。揺れるから振り落とされないように。」
「うん。」
テキパキとしたシナの指示に従って、一同はトロッコへと乗り込んだ。頼みのトロッコは、一言で言うなれば木の枠組み。一人また一人と乗るたびに、ギィギィと軋む音を響かせる。カーサはその音にアルベールの手を取りながらそっと乗り込んだが、エンダーはその様子に“そんなに慎重にならなくても壊れやしないよ、あんたが乗って壊れるようなら親父が乗った時点で砕けてる”と、少しだけ目を逸らしながら、相変わらず照れ臭いような表情を浮かべていたのだった。