次の日の朝は、親子の言い合う声から始まった。夜明け前の夜のように仄暗い部屋の中で、カーサは身支度を整えながらその声に耳を傾けていた。
「なんでそれを持って行かなきゃならないわけ?」
不満そうなエンダーの声。
「あのな、俺達にはカーサがいるんだぞ。彼女の力を最大限に生かすには、俺達が媒体となる道具を持たなきゃならない…そう教えただろ。」
「だったらもっと使える道具を選べばいいだろ。そんなのに魔法を与えて何になるっていうんだ。」
「エン、お前はカーサの力を知らないんだ。カーサならきっとこれにいい魔法を与えてくれる。大人しく俺の言うことを聞いて持っていろ。」
「そんなに必要なら親父が持ってればいい!」
「駄目だ。俺はお前にこれを持っていて欲しいんだ。」
「…っ」
そこでしばし会話が途切れる。シナはそうまでして何をエンダーに持たせようとしているのか…。
「…俺にそれを持つ資格はないよ。まだあの人たちのことを心底信じてるわけじゃないし…。だってそれは…」
エンダーがそこまで口にしたところで、ギィッと音を立てて部屋の戸が開く。その音の方向に背を向けていたエンダーは、驚いて口を紡ぐと素早く振り返った。そこには間の悪そうな表情のカーサがいた。エンダーの声がひどく怒っているように聞こえて心配して顔を出したカーサだったが、その瞬間に何か深い話が始まったために逆に出てこなければ良かったと感じていた。今更聞こえなかった振りをするのも白々しい。
「あ…ごめんなさい。私…」
エンダーはむっとした表情を一瞬浮かべると、シナが手にしていたものを引っつかんで外へと出ていった。
「…おはよう、カーサ。」
シナは僅かに息を吐いて、困ったような笑みを浮かべていた。
「シナ…私…」
カーサは聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと思い、怖ず怖ずと部屋から出て来た。そんな彼女に、シナは小さく首を横に振る。
「悪いな…出発の朝だってのに不安にさせちまって。」
「ううん。それよりエン君は…?」
「大丈夫さ。あいつはいつものことだから。それにおかげでちゃんと持って行ったしな。」
シナはそう言ってさっきまでそれを持っていた手をじっと見た。何かとても大切なものだったのだろう…それを聞いていいものなのか、カーサは躊躇っていた。
「お守りみたいなものさ。」
シナはカーサの心を汲んで、相変わらず複雑な微笑みで告げる。
「お守り?」
「あの子に何かあったらそれを…。きっと服の下に下げるはずだから。何もないことを祈るが、あの子はやんちゃだからな。」
真剣な表情から父親の笑みへと顔を変える。服の下に下げる…ペンダントだろうか。無論男性が好んでつけるわけもない、十中八九亡くなった母親のもの。エンダーとシナの会話から察するに、単なる形見ではないのだと考えられる。エンダーは自分にはそれを“持つ資格はない”と言っていた。まるでシナが持つべきだと遠回しに言うように。
「…何故…あんなにエン君に持たせようとしたの?」
何をかは分からないけれど、僅かにルルイエの影を感じた代物。魔法具ならばそれを信じる者が持つのと持たないのでは、発揮する効力に違いが出る。最大限に生かすといった言葉には矛盾する。
「何故、かぁ…」
シナは目線をカーサから少しだけ逸らして考え込んだ。
「親ってのは不思議なもんでな…子供には苦労して逞しくなってほしいと思う反面、辛い思いをさせたくないと思っちまうんだよ。…あれも同じさ。傷つくことなら俺が受ける、カミさんにはあの子を守って欲しかった。」
シナはそういって再び柔和な眼差しをカーサに向けた。親になった者だけが持ち得る慈愛の瞳…それは単なる自己犠牲などではない。
「分かったわ、シナ。万一の時は必ず。」
「ありがとう、カーサ。さ、準備が出来てるなら外へ行こう。アルもいるからな、どうせエンと二人で気まずい空気になってるだろうよ。」
そう言って今度は意地悪に笑う。この人はきっと昔からこうだったんだろうな…と、カーサは思いを巡らせた。セシルを見たときにどこかアルベールやロンザと言い争っている姿を感じたように、シナにはいつもおおらかに皆と話す姿が見えていた。自分もその輪の中にいたのだろうか…思い出したい。
「はは、思ったとおりだ。」
台所からパンやハムの入った袋を取り出しながら窓の外を見て、互いに背を向けあっている二人にシナは顔を綻ばせた。カーサもその様子を見遣って微笑む。
「さぁ、出発だ。」
シナに肩を軽く叩かれてカーサは頷くと、まだ明け方の暗い外へと出ていった。ハネスゲルンはデフェラ大平原を南に抜けたところの大きな都市。そこに行き着くまで私は私のやるべきことに専念するだけ。そんな使命感のもと、カーサは今誰よりも自分の力を信じていた。