昼を過ぎて列車はナジカの駅に到着し、シュウウゥ…と大きな音を立てて溜め息をつくように蒸気を放出させた。もうもうと立ち込める蒸気が、一瞬にしてナジカの駅を曇らせる。
「う…ゲホッゲホ…!!」
その蒸気を思い切り吸い込み、列車を降りたと同時にむせ返った。
「そんなに急いで降りなくても、この列車はすぐには出発しないよ。」
「そう…ね、ケホ…次からは気をつけるわ。」
カーサは涙目で振り返り、とても嬉しそうに笑う。二人の目の前にはイオ・チュリア山脈の急勾配がそそり立っていた。まるで高い建物を見上げるようにカーサは額に手をやり山脈を見上げる。自分がまるで谷底にいるかのような錯覚さえ起こす…けれどそこは紛れも泣く山脈の始まり、すぐ背後には広大なデフェラ大平原が広がっている。隣り合っていながらまったく異なる環境、景色。それらを前にしてとても胸が躍っていた。何より長い列車のたびで凝り固まった体に、外の空気がとても心地よい。
「山が鳴いてるわ。」
カーサは複雑な形の尾根によって引き起こされる風の唸りに耳を傾けていた。遠く空の上でオオォォ…とまるで生き物のように鳴いている。あの青空の遥か上を飛んでいる鷹には、何か透明な生き物が見えているのかしら…唸りに呼応するように身を翻している。
「カーサ、そんなところにいたら危ないよ。」
アルベールは空を見上げたまま物思いに耽っていたカーサの背中を軽く押す。
「え?あぁ…そうね、ごめんなさい。ここは随分人が多いのね。」
目線を改めていつもの高さに戻して気が付く。列車は閑散としていたけれど、ナジカの駅は人で溢れていた。
「うん、僕たちの乗ってた列車は生活物資も運んでいたからね。列車が駅に着くたびに市場が開かれるから人が多いのさ。」
アルベールはカーサの手を引き、人の少ないところを選んで歩いていく。常に人一人分の合間を抜けなければならなかったため、カーサはアルベールの背を見て歩いていた。アルベールが人を掻き分けてくれるおかげで、すぐ後ろのカーサはまるで堤防の影に隠れていくかのごとく、何の苦痛も感じなかった。
「さて…とりあえず宿を探そうか。」
混雑を抜けたところでアルベールが立ち止まり、一息つくように口にした。
「今日はちゃんと休まないと…疲れただろう?」
「アルほどじゃないわ。でも…そうね、今日はベッドで眠りたいわ。」
「僕もだ。」
そう言って少し疲れた顔で笑う。今朝自分が目覚めるまでの間、彼は一体どれだけ思考を巡らせていたのだろう。ロンザはそれを“使命”だと言ったけれど、カーサにはとても心苦しかった。自分はまだどうしてそんな風に守られるのか、その真意を思い出せないままなのに。
「なるだけ安くて綺麗なところ…というのもワガママだけど、とにかく当たってみよう。ハネスゲルンへの行き方は落ち着いてから…」
「アルベール?それに…カーサ…カーサじゃないか?!」
突然二人の名を呼ぶ声が耳に入る。振り返ると男が一人近づいてくる、30…いや40代になろうか。黒い瞳…けれど見覚えのある雰囲気。褐色の肌に光の具合でようやっと茶色に見る黒い髪。自然とカーサの頭をロンザの姿がよぎる。
「もしかして…だが…」
アルベールも彼の容姿にルルイエの影を感じたのか、しかし黒い瞳…この人も永久なる魔法具を失くしたんだわ、そのせいでアルが記憶している姿より年を重ねてしまってるんだ…カーサはそう感じていた。
「はは…分からないのも無理はないな。俺だよ、シナだ。本当に随分久しい。」
「シナ?!まさか…本当か?!」
「何を疑ってるんだよ、アルベール。確かにこんなオヤジになっちまったけどな。でもほら…これは消えてないぜ。」
シナと名乗った男は右腕の袖をまくり、肘と手首の間に彫られた刺青を顕わにした。少し薄らいだ不思議な紋様…永久なる魔法具に彫られているそれとよく似ている。
「あぁ…本当に久しいな、シナ。」
全てを納得してアルベールは嬉しそうに彼に笑いかける。セシルに会った時とはまったく違う。
「カーサ。」
シナが一歩引いた位置にいるカーサに呼びかけた。黒い瞳はロンザのように優しさを湛えている。
「長き眠りからようやっと目覚めたんだね。風の噂に聞いた…信じていたよ、君とロンザを。」
「おじいさんを?」
「“おじいさん”?!」
「シナ、ロンザはもう君より年上なんだよ。」
「何だって?!」
シナは思わず声を張り上げた。元々大きな声が更に大きくなってあたりに響く。
「まさか…驚いたな。だが道理でカーサが目覚めたわけ、か。こうなるかもしれないとは感じていたが…」
予感は外れた時よりも的中した時の方が衝撃が大きいもの。シナは今まさにそれを体感していた。
「しかし…そうなるとカーサは何も覚えていないってことなんだな。俺の事もか?」
「ごめんなさい…シナさん。本当は“初めまして”って言ってはいけないのよね。」
カーサはしゅんと気落ちする。この覚えていない罪悪感を早く解消してしまいたい。
「止してくれよ、その“シナさん”なんて呼び方も、しょげた顔もさ。カーサには似合わないよ。」
シナはニカッと白い歯を見せて微笑みかける。イオ・チュリアの上空に広がる空のように澄んだ笑顔。瞳は黒く変色していても、碧色だった頃の輝きを忘れていない。
「ところで何でここに来たんだ?伝承の日は近いはずだろ…ハイアーに行ってないとまずいんじゃないのか?」
「実はそれなんだ…。訳あって何とか大陸縦断鉄道を使わずにハネスゲルンに行きたいんだ。手段を知らないか?」
「…何かあったんだな…」
シナはアルベールの表情から危機的状況を汲み取り、同じように眉間にしわを寄せた。
「とにかく俺の家に行こう。ここじゃ話しづらいだろ。…こっちだ。」
市場で買ったらしい食料品の入った袋を持ち上げ、シナが二人を誘導する。
「良かったわね。」
そんなシナについていく途中で、カーサが小さくアルベールに囁いた。
「何が…?」
「ほら…ちゃんと道は拓けていたでしょう?物事って意外と何とかなるものよ、ね?」
カーサはニコッと首を傾げるようにしてアルベールに同意を求める。アルベールは一瞬驚いたように目を見開いたけれど、それもすぐに柔らかな笑みに変えると、小さく“ありがとう”と呟いた。