「アルベール…」
カーサが振り返る。アルベールはとっさに2人を見つめていた複雑な目線を隠した。
「ごめんなさい…ワガママ言って…。私、ルルイエに行くわ。」
その透き通った瞳には涙の代わりに決意が滲んでいた。
「あぁ…ありがとう、カーサ。」
アルベールは少し申し訳なさそうな笑みを浮かべる。本当はアルベールの方が“ありがとう”よりも“ごめん”を言いたい心持ちだった。
どこからか鉄を打つ甲高い音が響いてくる。いつもと同じ静かな夜。ランプの光に浮かぶ店内も、微かに漂ってくる芳しい匂いも、何もかもカーサが大好きなもの…いつだって輝くように見えていた。しかし明日出発だといわれ、準備と早寝を促されてカーサが自室に上がっていったこの夜の店内だけは、どこか光を失ってくすんだようになっていた。
「忘れ物はないか?」
いつの出発の場面でもオーソドックスに交わされる言葉をロンザが口にする。澄んだ青空…少し低めの気温が空気の新鮮さを感じさせる。職人の多い町は、早朝といえど既に動き出している人がちらほら見受けられる。煙突から立ち昇る白煙は、そのまま雲になってしまうのではないかと思えるほど青空によく映えた。
「えぇ、ないわ。でも不思議ね、別に忘れ物があってもいいような気がするの。すぐに取りに帰ってきちゃうから。」
カーサは悪戯に微笑んで振り返る。彼女は小さな肩掛けバッグを一つだけ提げていた。昨夜あれもこれもと大きなバッグに一度沢山詰め込んでおきながら、思い直して今の小さなバッグに変えていた。何もかもを持って行って思い出と共に過ごすより、少しこの場所に置いていって繋がりを持ちたかった…そうすることが今のカーサの笑顔を裏付けていた。あんなにもルルイエまでの旅を拒否していた気持ちは多少拡散して、ある種の責任感さえも生まれていた。
「信じられないかもしれないが、私と違ってお前の力は今も健在だ。そのことにはっきり気が付く日もそう遠くはあるまい。だが何かあればすぐにアルベールを頼れ。私たちは元々そういう使命を帯びているのだから。」
「分かったわ、おじいさん。…ふふ、何だか“おじいさん”というのもおかしいわね。名前で呼んだほうがいいのかしら?」
「…いや、お前の認識している通りでいいさ。」
ロンザはそう微笑みながら少し複雑な表情を見せた。その顔を見てカーサの表情も同じように変わる。ロンザの表情のその真意は分からないままだったが。
「行こうか、カーサ。準備は?」
「…いいわ。」
もう随分心の準備も整った。アルベールの問いに落ち着いた笑顔で返す。昨日はこの旅立ちが何もかもを変えてしまいそうだとただそれだけだったけれど、今は何もかもが駄目になるわけじゃないと心が告げている。知りに行こう…今まで何も知らないままでいいと思っていた代償に。ただ一つの心残りは…
「おじいさん…」
無口なロンザはただ静かに佇むだけ…その黒い瞳に哀しい色を宿して。
「行っておいで。」
「うん…おじいさん、元気で。」
そう言ってゆっくり数歩後退りしてから前を向き直ると、少し先のアルベールと共に歩き出した。カーサの代わりにアルベールが振り返る。“頼む”と小さく口にしたロンザと、それに頷くアルベール。
そして壊れて直らないまま変な時間に時を告げる壁掛け時計が、二人の出発を見送るように突然動き出していた。