「…カーサは寝てしまったのか?」
虚ろな意識に声が聞こえてくる。
「無理もない。最近めっきり客が減った。今お前が来たのもいいタイミングだったのかもな。」
「…起こすか?」
「いや…明日の朝でいい。どうせこんな時間に出るつもりはないんだろう?」
「…ん」
夢うつつの中で2人の会話の真意を掴めないままカーサは目覚めた。外は既に漆黒の闇に包まれて、静かな店内にはただランプの黄色く優しい光が揺らめいているだけであった。
「カーサ、眠ってしまっていたのかい?」
「…ごめんなさい、おじいさん。私…」
そう言ってカーサは顔を上げた。その目に微笑むように自分を見ているアルベールと、どこか寂しげな雰囲気の親方が映る。不意に体がざわめく…何らかの予感を察している。けれどそれがいい予感なのか悪い予感なのか全く見当が付かない。
「お話…終わったの?」
「ああ。」
「何の…話を…?」
「…昔の話さ。」
「ロンザ。」
“だから気にするな”ととっさに隠そうとした親方の言葉をアルベールが鋭く諌める。たった一言の中に“ごまかすんじゃない”というニュアンスを含んでいる。
「…本当は…お前の話をしていたんだ。」
親方が観念したかのように唇を噛むように呟いた。瞳の中の寂しさが色を強める。カーサはこんな親方を見るのは初めてだった。いつもぶっきらぼうで口数が少なく、ただ静かな中に優しさを宿す初老の男性…それがいつもカーサの見てきた親方だった。それが今はひどく小さく見える…そんな姿に心が締め付けられる思いがした。ああ…神様、どうかおじいさんにこんな顔をさせないで。私が何かをしたのなら、心の底から謝るから。
「…私の…私の話って?」
「お前はアルベールと共に行くんだよ。」
「行くってどこへなの?」
「お前のあるべき場所へ、さ。」
「あるべき場所?」
カーサは訳も分からずアルベールを見遣った。けれど碧の瞳の真意は汲み取れない。彼はただ静かに佇むだけ。
「何を言っているの?私に行く場所なんて…。それともまたお引越し?」
「そうじゃない…お前とアルだけで行くんだ。行けば必ず分かる。」
「そんな…全然分からないわ!ねぇおじいさん、はっきり言って!」
「君の口下手は相変わらずだね、ロンザ。」
今まで一歩引いた位置から見ていたアルベールが口を開いた。カーサはハッとしたように彼を再び見た。あくまで穏やかな、しかしどこか厳しさを交えた表情。アルベール…この人は一体何を知っているんだろう…?
「カーサ、単刀直入に言おう。」
アルベールがランプの下に出てくる。暗がりでも澄んで見えた緑の瞳が、ランプの明かりにより映えて見える。
「僕は君を迎えに来たんだ。君をルルイエに導くために。」
「ルルイエ…?」
聞いた事のない言葉…遠い記憶の欠片すら反応を示さない。
「…やはり覚えていないか…。あの時完全に記憶を封鎖してしまったんだね。」
カーサは言葉を返さない代わりに眉間にしわを寄せた。まるで身に覚えがない…誰かと自分を間違えているんじゃないかという疑いすら湧いてくる。けれどそれを口にはできない、さっきと同じ…その言葉が彼に対する裏切りように思えてならない。