カイは崖へと続く道なき道を更にショートカットして急いだ。急な斜面は靴の底でブレーキをかけるようにして地面を削り、そのまま平坦な部分に飛び降りても体勢を崩さずに尚も走った。やがて地面は岩へと変わる。そこはほぼ直角の白い岩肌の崖に囲まれた入り江。一見誰かが降りていけそうには思えない、船が数隻隠されているとは思わない。それはロッケルも同じ。カイとて最初は気が付かなかった。ディインがかくれんぼの最中に崖に近づき、その時に異様に怒ったナタリーの表情を見た時までは。道理で軍事島を飛び立ったロッケルの戦闘機に忍び込めていたわけだ。そうでなくとも軍事島内でのゲリラが可能だったわけだ。白い岩肌は実際には血に汚れている…死と共に勇敢の称号を与える場所。だがそれももう終わりにしよう…!
「もうやめてくれ…!」
カイは辿り着いた入り江の窪地の入り口から、少し息を切らせながら悲哀の空気を漂わす人々の群れに叫んだ。目に涙を溜めた人…目が真っ赤に腫れぼったくなっている人…毅然と佇む人、その入り江の奥まった窪地に集まっていた誰もが、振り返ってカイを見た。カイは窪地の入り口から辺りを見遣った。皆がその手にバガーを持つ…郵便の箱に入ったままのバガーには名前は無い。ただ無機質に打ち出された住所だけが記されている。
「貴様…何者だ?!」
明らかに軍関係者と思われる男が強い足取りでカイに迫った。カイはその男を静かな怒りの宿る瞳で一瞥する。
「バガーの該当者か?!それともロッケルの工作員か?!何か証拠を…っ!!?」
男はそこまで口にして息を呑んだ。カイの周りをまた淡いクリフォスの光が漂う。その光がナタリーの時のように洞窟内に拡散し、誰もがざわめき後退りした。カイは暗い中に霧のように舞う自らの光を静かに見ていた。同じ拡散でもエーイーリーの時とはまったく違う…何か薄い帯のように広がり、それぞれのバガー一つ一つにだけ狙いを定めて包んでいく。包まれたバガーは一瞬で崩れる…クリフォスはその塵さえも飲み込んで欠片すら痕跡を残さない。
「バガーが…」
その中の一人が呟く…笑みとも取れる複雑な表情を浮かべて。戸惑いの中の小さな安堵…洞窟内の誰にもそれが浮かんでいる。
「もう終わりにしよう。」
カイは赤い光を携えたまま柔和な表情で諭した。
「死んで国を守るより、生きて…戦争を終わらせて国を守ろう。今ここでバガーを手放せば、次の世代の子供たちの手にバガーが渡る事はない。ここで生きて守れるのは、何も国だけではないんだよ。」
洞窟内が静まり返る。カイの声の余韻だけが暗闇を満たす。
「そ…そうだ、もうやめにしよう…!」
沈黙を破るように男性の高らかな声が響く。希望を見ているように高揚し、それと同時に怯えるような震える声で。
「わ、私も…私もやめにしたい…!」
「俺もだ!本当は死にたくなんかないんだ…!」
「貴様らぁ…今そんな事を言った者は前に出ろ!!」
兵士は動揺しながらも手に持つ小銃を構えた。しかしカイがそれに目をやる。静かな瞳…クリフォスの光は物言わぬカイの心に従い、その銃すらも消していく。
「う…うわぁ…!!」
兵士は自らの手まで消えると思ったのか、慌てて消え行く小銃を放り投げるように手放した。
「これがこの国の意思だよ。」
カイは尚も静かに兵士を諭した。兵士は畏怖の眼差しでカイを見上げ「な…なに…を…」と呟いていた。しかし震える声はそれ以上続かない。カイはゆっくりと戸惑う群衆に目線を合わせた。
「戦争をやめにしよう。今まで必死に国を守ってきた君たちの声はきっとロッケルにも伝わる。戦争は終わらせられるよ。ここを出てそれぞれの町で声を上げよう。皆が幸せに暮らす未来のために死んでいった人たちも、その方がきっと報われる。戦争を止める事で誰かを裏切るなんて事は決してないんだよ。」
「ほ…本当に?」
ナタリーを思わせる歳若い母親らしい女性が一歩踏み出し尋ねる。
「あぁ。」
「でも…でも政府が聞き入れてくれるだろうか…?」
「声や言葉をもっと信じよう。私たちは銃声よりも大きく響くものを持っているのだから。」
カイはそう言って柔和な笑みを浮かべた。徐々に小さくなって消えていく赤い光の残り火が、その表情を淡く照らす。
「い…行こう!」
再び一人の男性の声が響いた。
「ここからトゥークの村を通って少しずつ同志を増やしながら町に戻ろう!そうすれば町に行き着く頃には大きな集団になる!俺たちの声が届くんだ…!今こそ…今こそ戦争を止めよう!!」
高らかに決意を語る男性に全員が賛同する。「そうだそうだ」と片手を突き上げて賛成する人や、近くの人と抱き合いながら喜びの涙を流す人…ナタリーと同じく人々を縛り付けていた重い鎖が次々と解け、誰もがやっと動き始めようとしていた。
「さぁ…あんたも行こう!!」
その中の一人が洞窟を一緒に出て行こうとカイに促す。
「いや…私にはまだやることがあるから…。君たちで行ってくれ。」
「だけど…あんたが最初にやめようと言ってくれたんじゃないか。是非来てくれないか…?どんな力があるのか分からんが…あんたがいれば心強い。」
男性はそういいながらカイの右腕を見遣る。
「…ありがとう。だけど私は行かなくては…。この戦争を止めるにはまだ手を打たなくてはならないから…。」
「そうか…何もかもあんたのおかげだな…頼んだよ。俺たちは必ずこっちで戦争をやめさせるから…!皆!さぁ、ここを出るぞ!!」
群衆が一様に希望への明るい表情を浮かべながら次々と洞窟を出始める。入り口付近では誰もがカイの肩を叩いたり、感謝の言葉をかけたりしていった。そうして全員が立ち去ったさざ波の響く洞窟の中でカイは一人船に乗り込み、ロッケルの軍事島への航路を取った。