「ナタリー!!」

カイは高台への道を一気に駆け登り、湖の淵辺に立つナタリーを見つけ叫んだ。ナタリーは体をびくっとさせて振り返る。その手には黒いゴツゴツとしたバガーが握られている。白い肌、白に近い金髪…その手の中の死の象徴だけがいように映る。誰も死が似つかわしいわけが無い…!ナタリー、それなのに何故君に死の予兆を見なくてはならない?!

「ナタリー…頼む、思い直してくれ!」

「カイ…どうしてここに?」

「マラが知らせてくれた。」

「…だから知られないうちに行こうと思ったのにな。」

ナタリーはそう自嘲的に微笑んだ。しかし声が震えている…恐怖でも躊躇いでも武者震いでも何でもいい…!何かナタリーを止める要因になっていてくれ…!!

 

 

 「ナタリー、バガーをこっちに渡してくれ。君はそんな風にして死ぬべきじゃない。」

「…ごめんなさい。これだけは譲れないわ…分かって。」

ナタリーは声の震えを今一度抑えてゆっくりとした口調で逆にカイを諭した。その落ち着きが決意の固さを覗かせる。せめてその表情のどこか一つでも揺らいで欲しい。

「分からないよ…。マラは君を止めようとしたんだろう?それなのにどうして行こうとするんだ…マラや子供たちの境遇を知っている君が…」

「お願い…それ以上は言わないで…!!」

ナタリーは固く目を瞑り、自らの肩を抱くようにして叫んだ。やはりまだ躊躇いがある…死なせたくない、どうしても止めたい。一瞬の沈黙に湖がざわめき立ち、木々が荒々しい音を響かせる。強くなった風が暗雲を呼び寄せ、いつの間にかマラの嫌がる空が頭上に現れていた。

 

 

 「ナタリー。」

カイは何度も彼女の名を呼んだ。そうすることで彼女の自我を保たせたかった。失くさないでくれ…死に怯える本当の君を。

「ナタリー、君が自ら死にに行こうとするのはご両親を裏切りたくないからだろう?国を守るために死んでいった事が正しかったんだと証明したいからだろう?!」

「…そうよ…!」

ナタリーは噛みしめていた唇を少しだけ緩めて一言呟いた。声は震えていない…けれど小さな肯定。葛藤が伺える。

「だって…だって父さんや母さんは私たちを守るために死んだのよ?!それなのにその私が生き延びて、それが間違いだったかのようになんてとても出来ない…!純粋に未来と国のために死んだあの人たちの魂は報われなければならないのよ!そのためには私も同じことをしなきゃ…そうしなければ浮かばれないわ…あまりにも!!逃げ隠れて平和を待つ事が正しかったなら、何故二人は死ななくてはならなかったの?!間違いは正すべきじゃないのよ…それに殉じた人がいるのなら!そうでしょう?!」

「でも君は私に十分だと言ってくれたじゃないか?!」

必死な形相のナタリーに思わずカイは声を荒げた。あの時自分を優しく救ってくれたナタリーが今は別人に見える。

「悔やみきれなくても…そう思い続けてきたなら十分だと言ったじゃないか?!そうしていればきっと彼らも浮かばれる、何も出来ないわけじゃないって…。君も同じなんじゃないのか?君もいつかバガーを受け取らなければならないことに怯えてきたんだろう?その気持ちだけで十分じゃないか…!君のご両親もきっとそれで報われてる。君が同じように死ぬ事を望んで死んだわけじゃないんだよ!」

「違う違う!そうじゃないの…!!!」

ナタリーは必死になってカイの言葉を否定した。強く頭を左右に振って拒絶する。けれど“違う”理由を口には出来なかった。未だナタリーを縛り付ける歪んだ使命感の鎖…ずっと引き摺ってきたんだ、簡単に解けるはずもない。カイは何か言おうとしてやっぱり止めて、歯が軋むほど強く食いしばった。本当は“何が違うんだ”と…“間違いはいつかは正さなければならないんだ”と言いたかった。だが言ったところでナタリーに届くとも思えなかった。いつバガーの起爆栓にその細い指をかけるかも分からない。強く踏み込んで全てが砂に変わっていくあの恐怖は中々拭えない。失いたくない…エディのように、けれど“死ぬな”の一言がどうしても言えない。救いたい…助けたい…せめてその重い鎖からだけでも!!

 

 

 

 「どうせ…どうせ死ぬのなら…!!」

カイは両手を強く握り締め、やっと声を発した。ナタリーは唇を噛んで自らの肩を抱いていた…瞳も体も仕草も何もかも強張ったままで。

「せめてあの子たちのためだと言ってくれ…!国の未来のためじゃなくて、あの子たちの未来のために死ぬんだと…!頼む…!!」

カイは悲痛な声で懇願した。一種の賭けではあったけれど、それを抜きにしてもナタリーの口から聞きたかった。その一言で救われる思いはとても多いはずなのだから…。

「…わ、私は…あの子たちのために…ううっ…!」

揺るぎなかった表情が途端に崩れる。

「生きたい…!」

堰を切ったように溢れ出した大粒の涙と共に、ナタリーの真意が零れた。

「本当は死にたくなんかない…!もっとあの子たちを一緒にいたい…!それなのにどうして…どうして戦争なんかがあるのよ?!終わらないのよ?!もう…もう終わりにしたい…!」

ナタリーはバガーを握ったまま両手に顔を埋めた。今まで押さえ込んできた思いを抑えきれずに子供のように泣いていた。

 

 

 カイは小さく安堵の溜め息をつくと、静かに湖畔のナタリーに歩み寄った。右腕が湯の中に入れた時のようにじんわりと温かく感じられる。包帯がクリフォスの光に塵となって、風に飛ばされるように消えていく。顕わになるクリフォスの右腕…カイはこの世界でやっとその赤い光を目にしていた。光は淡く光り流動し、歩むカイの速度についてくるように右腕を包んでいる。

「ナタリー…」

カイは歩みを止めないまま、優しく目の前の儚い女性に両手を広げた。融和的なクリフォスの光はその手を延ばすように彼女の手の中のバガーだけを一瞬で消す。

「カイ…っ…私…」

「大丈夫だよ。」

そう言ってカイはナタリーを抱き寄せた。

「たとえ君が死んでも戦争は終わらない。だけど君が死ななくても戦争は終わる。君は生きてあの子たちを守るんだ。戦争なら…私が止める。」

「うぅっ…でも…どうやって…?」

ナタリーはカイの胸に埋めた顔を少しだけ上げた。ボロボロと崩れ落ちる涙は、カイに貸した父親のシャツをみるみる染めていく。

「戦争っていうのはね、ただ皆が意固地になっているだけで本当はちょっとしたことで終わるものなんだよ。私はそれを何度も見てきた。そして君が“終わりにしたい”と言ってくれた。それだけで十分戦争を止められる。」

そうしてカイはナタリーの方を両手で持って、彼女の鳶色の目をまっすぐに見つめた。

「君は下の村にマラを迎えに行って。まだ新聞屋の所で泣いているはずだから…。そしてリックたちと一緒にいるんだ。君があの子たちを守るように、あの子たちはきっと君を救ってくれる。」

「カイは…カイはどうするの…?」

「私は君の行こうとしていた場所へ。この高台を反対側に降りて船着場に行く。」

カイはそう言って海側の斜面を見た。そこから近海域にあるロッケルの軍事島に向かうステルス船が出ている。バガーの届いた人の多くはそこから向かう…二度とは戻らぬ死出の海路。

「戻ってきて…ね?必ずここに…!」

ナタリーは離れ行くカイの手を辛うじて取りながら懇願した。もう会えなくなってしまいそう…戦争を終わらせる代償に目の前からいなくならないで…!

「あぁ…戻るよ、またこの湖畔に。必ず戻る。」

カイは頷き、そう強く言い切った。カイ自身、本当はもう戻れないと…これが済んだら他の世界に行かなくてはならないと、そんな予感がしていた。けれど予感と思いは違う。戻ってきたい…だからこそカイは口にした。形なき言葉だけでも繋ぎとめておくために。

「待ってるから…!」

そう言ったナタリーの手を離れ、カイは飛ぶように高台を降りていった。

  

 

        

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