カイが再びあの湖畔に戻ってきたのは、それから1週間後の事だった。あの後、崖下のステルス船ですぐにロッケルの軍事島に向かい、「タツァールで反戦デモが起き始めている、暫くの間攻撃を中止し状況を見ていて欲しい」と伝えに奔走していたのだった。故にその間バガーによる爆発がなかったように、ロッケルの空爆も同じくなかった。
「…綺麗な湖だな…」
誰もいない淵辺で彼は小さく呟いた。タツァールに戻ってきたカイは随分遠回りをして高台に辿り着いた。いかにカイといえど、あの断崖を登ることは到底出来ない。その道々はとても静かだった…平和な静寂が辺りを包んでいる。誰にも会わなかったのは、皆が反戦デモとして町に向かったからなのだろうか…?カイはまだタツァールでの戦況を知らない。ただただ終戦に向かっている事を望むだけだった。
カイの黒い髪を優しく風が撫でる。いつもと同じ静かな木々の揺らめく音が、カイが今この辺りで一人でいることを思い知らせる。カイはふと右腕が仄かに熱いのに気が付いた。それは右腕の球体(クリファ)が浮かび上がった証。カイはシャツの袖をめくり上げ、そして小さく微笑んだ。
…戦争が終わったんだな…
カイはそう確信した。そして心地よい疲れと共に、今度こそ世界を救えたことに言いようの無い安堵を感じていた。エディ…私は君たちに報いる事が出来ただろうか…こうしていくことで君たちが浮かばれるのだろうか…?キムラヌート以前の記憶のない私にとって、消し得ない過去とクリフォスの力が存在の証。どちらも捨て去ることは出来ない…たとえどんなに忌まわしいものでも。
君は一体誰…?
エディの言葉が頭に響く。月光の下で振り向く姿がよぎる…記憶の中の顔とは違う、柔和な笑顔。
カイはカイだよ。
おかえり、そしてただいま。
カイがあの砂の崩れ落ちる漆黒の闇から帰ってきたように、カイに再び光が戻ってきた。湖面に反射した光がカイの胸元に注がれる。一度手を延ばしても掴みきれずに離れていった光が自ら戻ってくるかのようだった。
カイは小さく微笑んで少し俯き、煌く湖面をどこともなく見つめた。いつもと同じ倦怠感が近づいてくる。争いが終わった喜びは、いつでも別れの寂しさと共にやってくる。ナタリーに“必ず戻る”と約束したけれど、このまま会えないままかもしれないな…。せめて私が戻ってきたという証だけでも残したい…証だけでも…
「カイ!!」
カイは不意に強く呼び止められて、薄れそうな意識を何とか立て直した。振り向くとそこには見慣れた女性が子供たちと共に佇んでいた。
「…ナタリー…」
彼女は以前その姿に見た黒い影をすっかりなくしていて、傾きかけた日の光により澄んで見えた。だがどこか泣き出しそうな表情…感じているのか、これが最後になる予感を。
「カイ…ありがとう…!!」
マラが目に涙を溜めて駆け寄りカイに抱きつく。それを見てスーも無言のまま走り寄ってきてカイの足元にしがみ付いた。まるでマラだけカイにそうするのはズルイとでもいうように。
「あたし…もうダメだと思った…・でもお姉ちゃんが来てくれたの…うぅっ…あたし嬉しくて…!!」
「マラ…君のおかげだよ。」
カイはしゃがみこんで二人の少女を優しく包み込んだ。マラは涙が止まらず、その顔を見たスーもつられて泣き出した。
「二人してなんだよ〜!!」
「そうだよ〜!ズルイぞ〜!!」
次いでリックとディインもカイに勢いよく抱きつく。思わずカイがよろめいて5人が一斉に尻もちをつくと、マラやスーまでもが笑い出した。その様子にナタリーは一人静かに微笑む。
「ナタリー。」
カイには珍しく少年のような笑みを湛えたまま、彼は立ち上がって憂いの空気を纏う女性へと歩み寄った。ナタリーは尚も微笑みながらも、視線をやや下へと逸らす。
「あれからどうなった?」
その問いに少しだけ顔を上げる。
「…終わったわ。あれから村でマラに会ってすぐに、あなたに会ったっていう人が沢山来たの。あなたが皆を止めてくれたんだって…。それから政府の中心機関のある都市へ向かったの。不思議ね…皆戦争を止めたいと思っていながら、いつまでも続けていたなんて。」
ナタリーは少し自嘲的に微笑んだ。
「それで…政府は何と?」
「…前々からロッケルに打診されていた条件を飲んで…終戦するって。政府にそれを約束させるには時間がかかったけど、でも暴動にはならなかったわ。政府から理不尽な事を言われたりされたりもしたけれど、それでも誰も手を出さなかった。…どうしてだと思う?」
今度はやや身長の高いカイを覗き込むように顔を上げる。
「どうして…?」
「あなたがいたからよ。」
ナタリーは柔和な笑顔を浮かべてカイの手を取った。思いがけない彼女の答えにカイは目を丸くしていた。
「あなたがこの湖畔や崖下の入り江で、平和を望む事がどういうことなのか教えてくれたからよ。バガーや力に頼らなくても声は届くんだって…。それにロッケルに停戦を要求しに行ってくれてたんでしょう?皆…本当はそれを知っていたわ。だから私も皆もそんなあなたに報いたかったの。本当にただそれだけだった…」
「ナタリー…」
「だからカイ…お願い…!!」
彼女はそうして一層強くカイの手を握り締める。ナタリーの表情を覆っていた切なさが姿を現す。
「どこにも行ってしまわないで…!私、あなたがどこかへ行ってしまうような気がしてならないの…こうして約束通り戻ってきてくれていても!子供たちにはあなたが必要なの!それに私…私にも…」
ナタリーは消え入るような語尾と共にカイから目線を外し俯いた。少し赤らめた顔…以前森の中で別れたラナを彷彿とさせる。
「…ありがとう、ナタリー」
カイは彼女の言葉に優しく微笑んだ。そう言ってくれたことが嬉しかった、いつも感じるように…できるなら一緒にいたかった、これから先も。けれどあの倦怠感がなくなったわけではない。カイが他の世界に発つ準備は既に整いつつある、必ずや他の世界に行くようにと。
「だけど…すまない。私はもう長くここにはいられない。そしてもう…二度と来れない。」
「え〜!!なんでぇ?!」
カイの言葉を聞いて、誰よりも先にリックとディインが素直な返答を同時に口にする。
「ここに住んじゃいなよ!」
「そうだよ!ナタリーとケッコンしちゃいなよ!」
「ちょっ…二人とも…!」
「な?スーもそう思うだろ?」
「マラもだよ!ね!」
二人の少年は赤面するナタリーなどお構いなしにまくし立てる。
「…そうだね。本当は二人の言う通りかもしれない。」
カイは伏目がちに寂しげな笑顔を浮かべた。その表情にナタリーが握る手を少し緩める。
「それなのにどうして…もう来れないなんて言うの?」
マラがまた泣き出しそうに尋ねた。静かに風が吹いて飛ばされた木の葉が湖にたゆとう。
「…それが私の宿命だからだよ。ナタリー、手を。」
カイはナタリーが離して自由になった右腕の袖を捲し上げた。第2球体・“愚鈍”を示すエーイーリーと、第3球体・“拒絶”のシェリダーの更に上に、それまで朧げだった球体が姿を現していた。肘の僅かに下、それは第4なる球体。エーイーリーでの傷跡はかなり薄らいでいるまでに回復していた。
「この右腕が私の宿命を示す。刻まれた球体…ひとつひとつが示すのは世界。各地で起こっている戦争を鎮めて世界を回らなければならない。それが約束だから。」
「セカイ〜?」
「セカイって何?」
「世界は国のもっと広いものだよ。この世界にタツァールやロッケルやトゥークの高台があるように、他の世界にも国があって人々が生活している。私は別の世界からここへ来た。戦争の根源…世界の姿を見極め収めるために。」
カイはそう言って左手で右腕を撫でるように触った。スーはもちろんのこと、誰もが一様に理解し切れていない表情を浮かべる。話の重要さを汲んでいたのはナタリーだけだった。
「それじゃあ…それじゃあ私が倒れてるあなたを見つけた時…」
「あぁ…あれはまさにこの世界に来た直後だった。尤も完全に覚えているわけではないけど…」
「この辺りの事を知らなかったのもそうなのね?」
「そうだよ。」
ナタリーは戸惑いながらも内心強く頷いていた。何かもが合点がいく…こことはまったく違うところ、別のセカイ。カイがどこかへ行ってしまうと感じた予感は間違いではなかったんだ。行ってしまったら二度と同じセカイには戻れない。行って欲しくない…でもカイはきっと行ってしまう。彼にはそうすることへの強い決意があるのが伺える。
「ナタリー、本当にすまない。」
カイは彼女の心内を読み取って謝罪の言葉を口にした。すまない…本当に、側にいてあげられなくて。