それから随分と穏やかな日が続いた。リックとディインは事あるごとに遊べとせがみ、マラやスーもカイの側にいることが多かった。ナタリーや子供たち、そしてトゥークの高台の風景がカイの心を軽くしてくれる。カイがエーイーリーの世界を忘れる事は一時もなかったが、それと同時に思い起こすアイアツブス・シェリダー・キムラヌートの世界が同じくカイを支えていた。彼らはきっと私を忘れない…世界が平和であるようにと生きていてくれるなら、自分が諦めるわけにはいかないと心を奮い立たせていた。

エディの声もまだ耳に残っている…“そんなの駄目だよ”と。その言葉が“やめてしまおうか”“右腕を捨ててしまおうか”という気持ちを優しく否定する。まだ可能性を信じていいんだ…右腕のクリフォスの力を使うことが怖くても。いずれはこの世界の姿を見出さなければならない、ナタリーは戦争が起きていると言っていた。それならばせめてその時にこの右腕を使わずに済むのなら…そう思いを馳せて、カイは毎晩眠りに付くのだった。

 

 

 

 「嫌な空…」

窓から夕暮れの空を見上げてマラが呟いた。

「どうして?」

「だってあの雲を見て。空はこんなに赤く染まっているのに、雲はあんなに真っ黒でしょう?こういう日は胸がザワザワするの…何か嫌な事が起こりそうで…。ほらあれ、飛行機よ。隣の国から雲に隠れて街に行くんだわ。」

マラは黒雲の向こうに少しだけ見えた点を指して言った。街に空爆を仕掛けるつもりか…戦闘機の編成がカイの目にも映る。

「ここには飛行機は来ないけど、遠くの街が夜なのに明るく見えるのよ。その赤い色が一番嫌い。」

マラはそう言って子供らしい少しふて腐れたような顔をした。“赤い色が嫌い”の一言にカイの心臓が一度だけ大きく鳴る。

「そうしたらもう今日は早く寝ましょう。どのみち空爆警報で灯火制限になってしまうもの。」

二人のいる部屋にナタリーが入ってきた。相変わらずたたみ終わった大量の洗濯物を抱えた状態で。リックとディインが最低でも日に一回は着替える羽目になるので、ナタリーはいつも居住人数の1.5倍くらいの洗濯量をこなしていた。

「さ、窓から離れてご飯にしましょう。お腹が空い…」

 

ドガガァァァァ…ン…!!!!!

 

ナタリーの言葉の途中で突然に轟音が鳴り響く。空中で轟くような激しい音…黒雲といえど雷ではない。いつかの暗い穴の中で間近に聞いたそれに似ている。

「何事だ?!」

カイは素早く窓を開けて身を乗り出した。マラはそれとは対照的に耳を塞いで後退りする。夕闇の赤味の残る空に、一筋の黒い飛行機雲が下へ下へと延びていく。ここからそれほど遠くはない。物凄い勢いで飛行機は堕ちていく。何が起きたのか…非常事態であることは分かるのだけど…。

「…マラ、リックとディインをすぐに探して。それから食卓に行ってじっとしていて。スーは私が…。カイ、あなたはマラたちと…カイ…カイ!!待って!行っては駄目!!」

しかしカイはナタリーの言葉を聞かずに窓から飛び出し、堕ちる飛行機の落下地点へと迷わず疾走した。右腕から端を発した体のざわめきに、どうしてもそうしないわけにはいかなかった。この数日間で落ちた体力に域を切らせながらも急ぐ。やがて空に鳴り響いたのと同じくらいの爆音が地上に轟いた。その衝撃がカイの元にまで響いてくる。落下地点は湖の先、小さな森の向こうか中か…。木々の合間に黒煙があがる。

 

 

 「…っ!!」

カイは走った先に見た光景に思わず息を呑んだ。ぐちゃぐちゃになった機体が焔を燻らせていた。上空からは未だ機体の残骸が降り続いている。単なる空中分解にしては不可解なまでの爆発音…操作を誤ったのか?戦闘機が誤作動を起こしたのか?機体と同じように原型を留めていないながらも、二人の人間が乗っていたことが見受けられる。

「一体何が…」

カイはそう呟いてしゃがみこみ、主なき手が握る鍵のようなものを拾い上げた。見覚えがある…スーやマラが首から二つ下げていた。

「カイ!!」

息をカイ以上にきらせながらナタリーが走ってきた。長めのワンピースの裾を両手で持ち上げるようにして懸命に走ってくる。

「…っ…これは…」

ナタリーはバラバラの機体に埋もれる二人の残骸に、カイと同じように息を呑んだ。

「暴発したんだろうか…?単なる空中分解には思えないが…。それにこれは…」

「あぁ…何てこと…。立派な死に方を…。それなのにどちらの方がそうなのか分からないなんて…。」

「待てナタリー、それはどういう事だ?」

カイの手の中の鍵を見て発したナタリーの言葉に、カイは素早く反応した。

「この鍵が何だというんだ?!“立派な死に方”とは…これは引き起こされた事なのか?!」

「ええ、そうよ!」

ナタリーは今まで見せた事のないような険しい目付きでカイを見遣った。それが怒っているからなのか、辛いと感じているからなのかは読み取れない。

 

 

 「カイが持っているのはバガーの起爆栓よ。」

「バガー?」

「バガーというのは小型の爆弾のこと。私たちがある程度の年齢になると、政府からランダムにそれが送られてくるの。バガーが届いたら私たちは…私たちは敵諸共に死ななくてはならない。ここではそう義務付けられているから。」

「義務?!国が国民に死ねと命じるのか?!」

「だって…仕方ないじゃない!戦争だもの!小さな国なのにずっと戦争を続けてきたせいで、兵力なんてもう残されていないの!こうすることでしか守れないのよ!!」

ナタリーは泣きそうな声だった。その必死な表情にカイはこれ以上強く言えなくなってしまった。それでも何とか気持ちを押し留めて言葉を続ける。今は世界よりも目の前のナタリーを救いたい…そういう気持ちだった。

「…君やあの子たちの両親がいないのはそのせいか?皆そうして死んだのか?!」

「えぇ、そう。でも私たちが特別なんじゃない…戦争孤児はもっとずっと多いの。皆がそうやって守ってきたのよ。起爆栓は爆発の中でも必ず残るように作られているの…遺品になることを見越して。スーは…あの子はご両親の起こした爆発をあまりにも近くで聞いてしまった…だから耳が聞こえないの。でもご両親がそうしたおかげでスーや私たちが生きていられるのよ。」

「馬鹿な…何をそんなに必死になって守るんだ…!生きて守れるものの方がずっと多いのに…!」

「それは違うわ…カイ、周りを見て。」

ナタリーに促されて、その言葉を少し不審に思いながらもカイは辺りを見渡した。燻る機体から独特の匂いが漂ってくる。それでもこの一帯はとても静かだった。カイとナタリーの入る機体の残骸があまりにも場違いに思えるほど、木々はいつものように揺らめき、その間から僅かな夕日を受けて赤く煌く湖面が見える。夕焼けに染まる空は徐々に夕闇の深い青へと変化して行っていた。

「周りが…?」

カイはいつもと変わらない風景の何をナタリーが示唆したのか分からず、ゆっくりとした口調で聞き返した。

「カイ、この国は美しいでしょう?この自然は守られなければならないでしょう?!もしこの国や自然が破壊されたら、その復興には時間がかかるわ。でも国さえしっかりしていれば、人はいくらでも生まれる事が出来る…暮らしていける!だから人が犠牲になって国を守るの。他国はそれを狂気だと言うわ。でもそれは人を殺したり、街を破壊するのが目的だった場合を言うのであって、私たちがしていることはそれとは全く違うのよ。私たちの決断は国と未来を守るためなのだから。」

揺るぎない瞳…カイはどうしてもナタリーの言葉を否定できなかった。“間違いだ”と口にして、何もかもを失ってしまった記憶が蘇る。あの過ちを二度は繰り返せない。

「君が“遅い”といったのはバガーのことか?バガーが届くのが街に比べて遅いと?」

ナタリーは何も言わずに小さく頷いた。その控えめな肯定がナタリーの真意を覗かせる。

「君にバガーが届いたら…同じことをするのか?」

「…するわ。」

ナタリーは伏せていた目を今一度上げた。少し躊躇うような一呼吸と強めた語尾…どちらが本当のナタリーなのだろうか。

「そしたらあの子たちはどうなるんだ…?君なしでは…」

「お願い!それ以上は言わないで…!!」

ナタリーは固く目を瞑って頭を左右に振った。どうかそれが、未だ気持ちの揺らいでいる証拠でありますように…。

「もう行きましょう…。また後で埋葬しに来ましょう。こんな状況ではまだ何も出来ないもの。」

「これは…どうする?」

「…この方が誰なのか分かるまで私が…。尤もこれでは判別できないかもしれないけど…。」

そう言ってカイから起爆栓を受け取る。その手が微かに震えていた。助けてあげたい…この戦争の理由や状況が分からないままでも、今その痩せた肩を震わせているナタリーを助けてあげたかった。

 

 

 

だが…何が出来る?今の私に。どうしても今までのように出来ない。一歩踏み込むとそこが砂になって崩れてしまいそうな恐怖が纏わり付く。自分がこんなに臆病だった覚えはない…だがそれなら何故助けたい気持ちに体が躊躇う?

 

カイはとうとう死を予兆させるナタリーの言葉を止める事が出来なかった。クリフォスの力を抑えるように言葉をも飲み込んでしまった。戦闘機の編成が向かった先の街が、空気の震えと共に赤く染まる。その赤い色とクリフォスの色の何か僅かな違いを見出したくてたまらなかった。

 

 

 

        

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