二人で出た外はこれ以上ないほどに清々しかった。木々や湖のみならず、風さえも煌いているように見える。トゥークの高台から見下ろすように小さな村が見えた。ナタリーはその一つ一つを丁寧にカイに説明していく。木の名前、村の生活、子供たちの秘密じゃない秘密基地の場所、この季節にはどんな花が咲いてどんな実が生るのか…そうしていつの間にかカイとナタリーは湖に着いていた。
「綺麗な湖だな…」
カイはエメラルドグリーンに透き通る湖面を見て呟いた。あまりの透明度に吸い込まれそうになる。小さなさざ波が煌く風によって何度も寄せては返す。
「えぇ、綺麗でしょう?最初にここに来た時、まだ9歳だったマラが“皆の涙を集めたみたいね”って言ったわ。きっとその通りね。ここに来ると泣きたくなるの…心が湖に洗われるのよ。」
「…泳いでも?」
「え?えぇ…構いませんわ。でも…今?」
「あぁ。」
カイは答えながらブーツの紐を解いて脱ぎ始めていた。続いてナタリーに借りたシャツも鉱山のタンクトップも地面に置く。
「明日の方が…この時間じゃ風邪を引くわ…カイ!」
カイはナタリーの言葉を半分聞かないままに湖の中に入っていき、十分な水深の辺りで飛び込んだ。確かに水は冷たい…気温も十分とはいえない。それでもカイは泳ぎたかった…心が洗われたかった、この纏わり付くような赤黒いドロドロとした感情から。
光は透明度の高い湖を底まで貫く。カイは深くまで潜ると仰向けになって水の中から空を見上げた。空と光が美しく揺らめく。光は消えない…こんな湖の底でさえ。私の光もまだ消えてはいないのか?赤いクリフォスの光じゃない…私が望むのは淡く優しい希望の光。そう…この水中を照らすにも似た光だ。
…エディ
失った光の名を口にする。言葉はコポコポと音を立てて水中を舞い上がっていく。カイは光の根源に手を伸ばし、それを掴むように手を握り締めた。けれど光は掴めない…すぐ側で輝いているのに。
カイは水中から顔を出し、濡れて目にかかる髪をかきあげた。湖面が揺れて清廉な音を立てる。潜る前よりも日は傾き、東の空は少しずつ夕闇に染まり始めていた。闇が徐々に迫ってくる…不気味なほどに深い空の色に、カイはどこか自分を重ねていた。
湖を泳ぎ岸に戻るとナタリーはカイの着ていたシャツやタンクトップを腕に掛け、佇むように立っていた。カイは浅くなった湖の岸辺を歩きナタリーの位置まで戻ると、振り返って湖を見るように座り込んだ。ナタリーはそんなカイの肩にシャツを掛けると隣に座った。
「包帯が…」
泳いで解けかけた右腕の包帯を見て、ナタリーが触れようとする。
「…触らない方がいい…」
「…何故?」
悲痛に呟くカイにナタリーは聞き返した。聞かないでいる事と聞いてあげる事の両極端な優しさの、後者をナタリーは選んだのだった。
「…この右腕は汚れているから。」
「私にはそうは見えないわ。確かに痛々しげではあるけど…」
「君は…知らないだけだよ…」
そう言ってカイは自らの右腕を掴む。左手はまだ右腕を引っ掻いた時の強さを覚えている。
「私はあまりにも多くのものをこの右腕で奪ってしまった…。もう取り返しなんかつかない…!私もこの右腕も、所詮闇でしかないんだ…。」
自らの言葉が記憶をえぐる。何故力を抑えられなかったんだ…何故もっと周りを見ることが出来なかったんだ…!何度だって結末を変える機会があったはずなのに…!!
「もし…もしあなたが闇なら…」
ナタリーはカイの心持ちからは想像もつかないほど穏やかに口を開いた。
「…その闇はきっと夜のようなものね。」
「…夜?」
「夜は確かに暗くて怖いけど、眠れる事で私たちを癒してくれるわ。あなたはそれに似てる。どこか物悲しくて明るいとは言えないけど…不快ではないもの。この右腕もあなたが思っているほどではないかもしれない…でしょう?」
「違う…違うんだ…!!」
カイは半ば必死になってナタリーの言葉を否定した。誰かに許される事がエーイーリーの世界に対する裏切りのように思えてならなかった。
「この右腕の本当の姿は恐ろしく…おそましいんだ…!私が何をしてしまったか…きっと彼らは私を許さない…!!」
「でもあなたはこんなに悔やんでいるじゃない!」
頭を抱えるようにしたカイに思わずナタリーは声を上げた。僅かに震えるような、泣きそうな声で。
「私はあなたが何をしてしまったのか知らない。あなたが自分を闇だと言う理由も分からないわ。でもその事をずっと悔やんできたんでしょう?自分をそうやって傷つけて…追い込んでまで…。私は…それで十分だと思う。たとえ許されなくてもあの人たちは浮かばれるわ。あなたにもう何も出来ないわけじゃないのよ。」
「ナタリー…」
カイはやっとその顔を上げた。ナタリーはあの記憶の中の人物と同じ意味合いの言葉を口にした。何も出来なかったわけじゃない…何も出来ないわけじゃない…。自らの闇の真意はまだ問われている最中なのだと。
「…不思議なものだな…」
「え?」
「今まで呼吸をしていなかったような…目を開けていなかったような…そんな気がする。」
風が心をすり抜ける清々しさがカイを満たしていく。今初めてカイはこの世界で目覚めたように感じていた。
「湖のおかげ…ね。」
ナタリーが優しく微笑みかける。
「そうかもしれないな…。」
ナタリーの微笑を受けてカイは真っ直ぐに湖を見つめた。西日にキラキラと湖面が輝き、澄んだエメラルドグリーンの中に微かな朱を含み始めていた。湖面のさざ波、木々の揺らめき、空には一番星が姿を見せる。
「綺麗な湖だな…」
カイはもう一度同じ言葉を口にした。だがその意味合いは先程までとは全く違っていた。