柔らかな風が吹く。カイは肌でそれを感じていたが、意識は現にはなかった。食卓の隣の部屋のソファに腰掛け、外で遊ぶリックとディインの楽しげな声を遠くに聞いているうちに、いつの間にか眠りについてしまっていた。ザアァ…と音を立てて木々が揺れる。その音が夢の中では砂のこすれあう音に聞こえる。カイは再びあの闇に立たされていた。だが先程とはどこか違う…見えざる存在を感じる。
−カイ…カイ、聞こえるかい?−
聞こえる…その声、記憶の中の声だ…
―そう、けれどこれは記憶じゃない。今君に直接話しかけている。これが…最初で最後になろうけど…−
あなたは誰なんだ…?何故私にこんな事を強いる?
―…今は…言えないー
私と約束を交わしたのはあなたなんだろう?
―そうだー
あの約束はもう反故だ…。知っているんだろう…?私が何をしてしまったのか…
―あぁ…知っている。君には辛いことになってしまったね。だけど君が何も出来なかったわけじゃない。ー
出来なかった方がずっと良かった…!!あんな事になるのなら…!
―分かっている…分かっているよ。けれどあの事の全ての責任が君にあるわけじゃない。−
全て…あるようなものさ。結局手を下したのは私だ…。
―カイ…今君にこれ以上のことはしてあげられない。けれど今もこれから先もひどく辛いときが来たなら、誰かに助けを求めてごらん。君は一人で頑張る必要はないんだ。君の“助けよう”という気持ちは誰かの“助けたい”気持ちを生む。今まで助けてきた人たちに君が助けられる時もきっとある。今はこの言葉を信じて先に進んで。君を必要としている世界がまだあるのだから。−
…私で…いいのか?あなたの方がいいんじゃないのか?
―そんな事はない。君でなくてはいけない。さあ…君の中に残る記憶を少し強めてあげよう。おそらくもう君に直接話しかけてあげられない。あとは記憶を辿って…その行き着く先で君を待つ。−
私を…?
声はそれきり遠のいて消えていった。砂の音が徐々に違ったものに変化していく。それは木々の音…カイはごく自然に闇から目覚めていた。いつの間にかスーがその小さな体を更に丸めて、カイにすがり付くようにして眠っていた。リックとディインのはしゃぐ声も今はしなくなっている。太陽は一番高くある位置から西へとずれ始め、少しずつ赤くなっていく光を部屋に注ぎ込んでいた。
カイは夢を反芻していた。あの声が話しかけてきた。何もかもを見通しているかのような口ぶり…正体は今は明かせない…約束を交わした…行き着く先で私を待つ…。あれは一体誰なんだ?何故か懐かしさを覚える。約束を交わしたのだから過去に会ってはいるんだろう…。だが、この回帰を望むにも似た感情は何だ…!?
「あら…起きてらしたの?ごめんなさい、スーが…」
部屋に洗濯物を抱えたままのナタリーが入ってきて、相変わらずの柔らかな声で話しかける。
「あぁ…いや、構わないよ。」
「スーったらこんなに丸まっていたら寝づらいでしょうに…。やっぱり大人の男性を恋しがる気持ちだけはどうにも出来ないわ。」
そう言ってカイに寄りかかるスーの体を逆方向に傾けて、その背中をポンポンと優しく叩いた。
「皆…両親がいないんだな。女性も戦争に関わらなければいけない状況なのか?」
「…似たようなものです。」
ナタリーは戸惑うように肯定する。その表情にカイの心も同じように曇る。
「あ、そうだ…カイ、これを。私の父のものだけど…少し大きいかしら?」
ナタリーは白いシャツをカイに手渡した。
「ここの夜は昼間から想像できるほどに気温を保たないの。その格好じゃきっと辛いわ。それで…カイの体力さえ良ければ散歩に行きません?ここには今のあなたに必要なものがあると思うの。」
「私に必要な…?」
「えぇ、疲れているのは体だけではないでしょう?」
シャツを羽織るカイにナタリーが微笑みかける。“今まで助けてきた人たちに助けられる事がくる”…か、だがそれだけじゃないんだな。ナタリー、今の私を支えているのは間違いなく君だ。