もしも全ての世界が平和になったら…

 

けれど、そんな約束はもう叶わない。私はもう全ての世界を平和にする事が出来なかった…消してしまった、この忌まわしい力で。それなのにまだ私に別の世界に行けというのか…。もういい…もうどこにも行きたくない…。このまま闇の中で眠らせてくれ…

 

 

 

 

 「ねぇ、この人ちっとも起きないね。」

少女の声が柔らかな風が吹き込む部屋の中で静かに切り出す。

「もう何日になるんだろうな!?」

「息しながら死んでたりして!」

「もう…そんなわけがないでしょ。」

次いで元気な少年の声が飛び交う。そしてそれを諌める女性の声。けれどそれらの声はカイには届いていなかった。

「さ、もうご飯にしましょう。この人はきっととっても疲れているのよ。起きるまで待っててあげましょうね。」

「はぁい、ナタリー。」

「分かったわ、お姉ちゃん。」

それぞれが思い思いの返事をして部屋を後にしていく。ナタリーと呼ばれた女性は少年少女が全員部屋を出て行くのを見届けると、一人ベッドで静かな寝息を立てているカイを見遣った。カイの黒い髪が窓から入り込む風に揺れる。ナタリーはそれを見て少しだけ窓を閉めると、ゆっくりと扉を閉めて同じく部屋を後にした。

 

 

 

 カイの意識はこの時深い闇の中にあった。傍らにいた少年が“息しながら死んでいるのかも”と言ったことはあながち間違いでもなかった。夢も見ず、何も感じない…そんな領域から出てくる事がどうしても出来なかった。だからと言ってカイの意識がどこにあったかとも言えず、“どこにもなかった”と言っても過言ではなかった。ただ砂の崩れる音だけが聞こえてくる。サラサラという音がどんどんと激しさを増していく。闇の中でカイは意識を戻し、そしてどこからか流れ落ちてくる砂を掬おうと手を伸ばした。砂は指の間をすり抜けて落ちていく…そして儚く煌いて消えていく。カイがどんなに綺麗な椀を手で作っても、少しも砂は溜まらなかった。

 

…なんでだよ…

 

暗闇の砂が言葉を発する。カイはそれを聞いて虚ろだった目を少しだけ見開いた。聞き覚えがある…それは最期の言葉。なんでだよ…なんで…なんで…どうして…!!

 

どうして世界は消えた?!!

 

 「きゃっ…」

儚い声が小さく叫び声を上げる。カイはそれでようやく目覚める事が出来た。ハッとしたように覚醒し傍らに目をやる。白い肌の少し痩せた女性が立っていた。白にも近い金の髪の毛、瞳はとび色。その細い左手首をカイの右手が握っていた。

「あ…びっくりした…。具合はいかが?」

カイはそれに答えず、ただ短い呼吸を繰り返す。呆然としていた…まだ覚醒したという実感がわかなかった。光の零れる部屋の窓が今までの暗闇とはあまりにも対照的で、それがためにひどく非現実的に見えた。

「…なにか悪い夢でも?」

「す、すまない…」

カイは慌てて女性の左手首を手放す。今この右腕は何にも触れてはいけないような気がしていた。

「ここは…?」

カイは頭をおさえるようにして起き上がった。今までで一番酷い…頭痛と吐き気が止まらない。カイはマントを着ていなかった。ラー鉱山にいたときのまま、黒のタンクトップから出た右腕には包帯が巻かれていた。

「ここはトゥークの高台にある家ですわ。」

「トゥーク…?」

「ご存じないですか?随分遠いところからいらしたのかしら?トゥークはこの辺りの山間の地名、いわゆる田舎地方なんです。ほとんど人は住んでいません。小さな村が近くにあるくらい。こんなに素晴らしい場所なのにね。」

女性はふふっと“ここに住まないなんて損ね”という風に微笑んだ。

「私は…いつからここに…?」

5日ほど前からかしら。この近くの茂みに倒れていたのを見つけて…それからずっと眠っていたんですよ。何か召し上がりますか?」

「いや…」

こんな酷い吐き気では体が何も受け付けない。

「じゃあ水だけでも…。ひどく汗をかいていますもの。」

女性はそう言ってグラスに水を注いで差し出した。カイはそれをあえて左手で受け取ったが、その手も小刻みに震え口元でカチカチと音を立てた。

「…大丈夫ですか?」

カイの様子に女性が声をかける。カイは震える手を律して何とかグラスの水を口に流し込んだ。喉を通る冷たい感覚が心地いい。

「…ありがとう。すこし気分がよくなった。」

カイはそう言って少しだけ震えの止まり始めた手でグラスを返した。

「良かった。ここは静かな所ですから、どうぞゆっくり休んで。あ、私はナタリー・ディクル。あなたは?」

「私はカイ。」

「カイ…いい響きね。」

そうナタリーは微笑んだ。窓から差し込む光と同じくらい柔らかな微笑み。どちらが夢で現実なのか、分からなくなるほどに美しい。

「さ、もう少しお休みになった方がいいわ。まだかなり顔色が悪いですもの。」

ナタリーはカイから受け取ったグラスを、水のたっぷり入ったポットの横に置いて立ち上がった。カイの呼吸はまだ荒い。青ざめている顔を完全に上げる事さえ叶わなかった。体が重い…思い出したくないことが常に頭の片隅にある。それが“もっと苦しめ”と追い討ちをかける。それが報いだとして、果たして私は許されるのだろうか?

「眩しくはないですか?」

「…ああ。」

「それじゃおやすみなさい。何かあったら呼んでくださいね。」

そうナタリーは部屋を後にした。昼間のカーテンが閉められた室内はほの暗い。カーテンの隙間から光が零れる…真っ暗な闇などには決してならない。けれど光を許さない漆黒の闇なら存在する…私はそれを知っている。虚ろな意識の中でそれを見た。何よりも濃くどこよりも深く…怖かった。あれが世界と世界の間。世界はきっと闇の中の光。誰に知られるでもなく存在していた…はずなのに。

 

 

 

 カイは目を閉じてゆっくりと横になった。込み上げてくる不快な心持ちに堅く目を瞑り、そして包帯の巻かれている右腕を見た。血はもう止まったのか包帯に汚れは無い…カイはおもむろにそれを解く。幾重にも走る傷跡、自らの爪で抉ったそれは思ったよりも強く残っている。けれどそんな傷よりもクリフォスの痣の方がずっと根深い。どんなになっても消えない赤い紋様…赤い光。手首の辺りの球体がはっきりと現れている。

「エーイーリー…」

カイは小さく呟いた。世界は無くとも姿は浮かぶ、浮かべば感じる球体の意味…それは“愚鈍”。自分しか見えない…自分のことしか考えられない、愚かにも鈍い。だか真に鈍いのは…鈍かったのは…

「…私だ。」

争いを止める事しか考えていなかった。それにかまけて人に気持ちをもっと理解しようとさえしなかった。そのせいで世界は消えた…私が消した。今更もう戻るまい。あの世界の人々の顔が次々に頭をよぎる。逃げ惑う人…消え行く体に嘆く人…。オックス…最後の最後まで分かり合えなかった。ウィゴ…カロン、最後に私を恨んだか…?エディ…エディ…、結局私は君を救うことの出来ない運命だったんだな…。カイの瞳に涙が滲んでくる。

 

 ダル…アルマ…ラルフ・ウィニー・ケイル…ラナ、私のしたことを知ったら君たちはどう思うだろうか?私は非力だ…そして独りだ…。本当は誰かにこの思いを話したい、分かってもらいたい…背中を押してもらう事をきっと誰よりも強く望んでいる。しかし今すぐにそうしてくれるであろう人たちには二度と会えない。たった独りで知らない世界を回る事が寂しくないと思わなかったことはない。けれど私はこんなに弱い心だっただろうか?

 もう全ての世界を平和にする事など叶わない中で私は…どうなるのだろう…。あの声はもう随分と聞いていない。知らせが無いのは順調な証なのか、それとももう無駄なのか。…どちらでもいいから教えて欲しい。私はこれからどうするべきなのだろうか?

 カイはそこまで考えて寝転んだ目元に左腕を充てた。そのちょっとした隙間から、一粒だけ涙が伝った。

 

 

        

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